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レミング(第三部)

18:00

 坂本の家のリビングで坂本とテーブルを挟んで話すことになるとは想像してもいなかった。坂本がコーヒーか紅茶を薦めてきたので、私は迷わず紅茶をチョイスする。坂本が紅茶を準備している間、私はリビングの内装を見ていた。欧米の小説や映画にでも出てきそうな、非常に洗練された英国調の内装だ。リビング全体が非常に清潔に保たれていたし、椅子やテーブルなどの家具は必要以上でも必要以下でもない品格をたたえて各々の役割を担っていた。坂本がしばらくして紅茶を二人分持ってくる。そして私と反対側の椅子を引いて座る。私と坂本は正面から向かい合う形になる。私は一瞬不思議の国のアリス症候群のようなものに襲われる。椅子のひかえめさに対して、テーブルがあまりにも巨大すぎるので、まるでリムジンの車体を挟んでお茶を飲んでいるみたいな感覚に陥ってしまったのだ。

 私は紅茶をひと口飲んでから、カップをソーサーに戻す。坂本も同じように紅茶をひと口だけ飲み、カップをソーサーに戻す。「山田さん」と坂本が話し始める。

「それで君はプリントを渡しに来たわけではないんだろう?」

 私はもう一度紅茶を飲む。カップを揺らして危うくこぼしそうになる。ソーサーに戻すときも大きな音を立ててしまう。「はい」と私は答える。

「私はあなたに復讐しに来ました」

 坂本は一瞬びっくりしたような顔をしたが、すぐにいつもの他人を見下したような顔に戻る。そして微笑みを浮かべる(恋人の松井の微笑みとは全然違った種類の微笑みだ)。

「それでこそ山田さんだ。この一週間というもの、ぼくはずっと君のことを待っていたのかもしれない」

「両親はいまどちらも外出中なんだ」と坂本が突然話題を変える。私はいったいどういった種類の話が始まるのか全くわからなくなる。坂本はそんな私の顔を見て「山田さんにはいまからサリンジャーが定義するところのデイヴィッド・コパフィールド的な話を聞いてもらう」と説明する。「要するにあなたの生い立ちを聞かされるということ?」と私が聞く。「山田さんも聞いているうちにだんだんと話がわかってくると思うからとりあえず話を聞いてくれ」と坂本が話し始める。

「父親は仕事中で母親は美術教室に行ってる。うちの母親は専業主婦なんだ。元々が裕福な家庭の生まれ育ちで苦労というものを知らない。父親とは大学時代に出会ったそうだ。父親は母親とは逆に貧乏な家庭で生まれ育った苦労人で、大学の入学金も授業料も全て自分でアルバイトして稼いだんだ。将来は自分で会社を創業して億万長者になるのが夢だったらしい。億万長者とまではいかないまでも、経営者としてまずまずの成功を収めているわけだから、壮大な夢のうち半分くらいはひとまず現実になったわけだ。僕の父親と母親がなぜ恋人になって、どうして結婚するまでに至ったのか、それはもういまとなってはわからない。ぼくがものごころついたころには、二人はすでにほとんど離婚寸前みたいな状態だった。毎日のように寝室やリビングから喧嘩する声が聞こえてきたし、喧嘩をしていないときにはお互いがお互いの存在を透明人間のように扱っていた。小さいころのぼくは大変だったんだよ。何故かというと父親といれば母親の悪口を聞かされるし、母親といれば父親の悪口を聞かされるからだ。それでいてどちらにもいい顔をしなければいけない。だっていくら仲が悪いと言っても、ぼくとしては父親も母親も好きなわけだからね。どちらかを肯定して、どちらかを否定するといったことができるわけがないんだ。それなのに両親は二人ともぼくを自分の味方につけたがる。全くばかばかしいというか、あほくさいというか、愚かな夫婦だ。ぼくは正直に言って父親のことも母親のことも好きじゃない。むしろ嫌いと言ってもいいくらいだ。もちろん大学は東京に行く。東京の大学なら正直どこでもいいんだ。こんな家庭からはさっさと脱出しなくちゃいけないんだから。山田さんもそう思わない?」

 私は坂本の話に圧倒されて何も言うことができなかった。私はいま何についての話を聞かされているのだ?

「ごめんごめん、山田さんにどう思うか聞いたってあまりに個人的な問題すぎて答えられないよね。山田さんはきっとぼくがなぜこんな古典的な生まれ育ちの話をしているのかわからないだろうな。ねえ、山田さん。ぼくがなぜこんなことを君に話しているのかわかる? それは君にぼくのことを理解してほしいからなんだ。ははは、山田さんびっくりした? よく聞こえなかったみたいだからもう一度言うけど、ぼくは・君に・ぼくを・理解してほしいんだ。冗談なんかじゃなくて本当にそう思っているんだ」

「私にあなたのことを理解してほしい?」

 私に返事ができるのはそれくらいだった。話の展開があまりに突然すぎて私の頭はシステムダウンを起こしていた。

「さすがは成績優秀の山田さん。その通りだよ。ぼくは君にぼくのことを理解してほしいと思っているんだ。まあ人間と人間なんてどれだけ親しい仲だろうと100パーセント完璧に理解し合うなんてことは不可能だけどさ、それでも100パーセントに近く不完全でも理解し合いたいと思うのが人間の自然な気持ちだよね。さて、それではぼくがどうしてわざわざ君に理解してほしいと思っているのか説明してあげよう。だってぼくと君は友だちでも何でもないし、恐らく知り合いですらない、本当にただのクラスメイトというだけの関係なんだから、君は不思議に思うに決まっている。『あの坂本がどうしてわざわざ自分なんかに理解してほしいんだろう?』。きっと君はいまこう考えているだろう。ぼくだって反対の立場だったらそう思うに違いない。『どうして恋人の松井さんや野球部の友だちじゃなくて自分なんだろう?』ってそう考えるに決まっていると思う。山田さん、それでは説明させていただきますが、ぼくが松井さんや野球部の人間にこういうことを話さないのは、松井さんや野球部の連中がぼくのことを全く理解していないからなんだ」

「理解していない?」

「そう、理解していないんだ。正確に言うと、松井さんや野球部の連中っていうのは要するにぼくのことをイメージとしてしか認識していないんだ。ほら、たとえばアイドルっているだろう。ぼくたち一般国民はアイドルのことをネットやテレビやラジオや雑誌を通したイメージで認識する。でも本当はそんなイメージはアイドル本人の実体とは何の関係もないんだ。それはあくまで記号にしか過ぎないんだよ。ぼくたちはメディアを通した記号を消費しているだけのくせに、あたかも実体を認識したかのように錯覚してしまう。松井さんや野球部の連中はそれと同じことをぼくに対して行っているんだ。いや、松井さんや野球部の連中だけじゃない。担任の教師や部活の顧問やぼくの両親や地域の人間といった大人たちですらそうなんだ。むしろ大人たちの方がひどいくらいだ。大人たちはぼくのことをまるで清廉潔白で頭脳明晰で運動神経抜群の天才か何かだと思っている。本当は全然そんなことないんだ。世の中にはぼくより勉強のできる人間や、運動ができる人間がたくさんいるし、僕みたいな俗物はしょせん井の中の蛙に過ぎない。それにぼくは全然清廉潔白なんかじゃないんだ。山田さん、君だけはぼくの正体に気づいていると思うけど、現にぼくは藤原をいじめて殺した張本人なんだから」

 藤原の名前が坂本の口から出た瞬間、私は全身が震えるのを感じる。私はいま恐怖を感じているのだ。藤原をいじめて、自殺するまでに追い込んだ巨悪の権化のような人間を目の前にして、恐れおののいているのだ。坂本はそんな私を見てまた笑う。

「山田さん、君はぼくに復讐しに来たんだろう。山田さんは藤原のことをいつも気にかけていたものね。いや、気にかけていたというのは婉曲に過ぎる表現かもしれないな。正確を期して言い直そう。山田さん、君は藤原のことが好きだった。そうだろう? しかも知人や友人として好きだったというレベルを超えて、恋愛対象として好きだった。オーケーオーケー、そんなに怖がらなくてもいい。何と言ってもポリティカル・コレクトネス、多様性をリスペクトする時代だ。恋愛対象として好きなのかどうかくらい、山田さんのことをひと目見たら誰にだってわかることだ。正直に言うけどぼくは君のアカウントを知っていたんだ。藤原が教えてくれた。ぼくは君のアカウントをある時期からずっと監視していた。君はサローーつまり藤原のことだけれどーーの投稿によく『いいね』を押していたし、引用もしていた。一人のフォロワーというには度が過ぎるほどだった。ほとんど変質的というか、ネットストーカーと言ってもいいくらい、君はサロにこだわっているようだった。君は――」

「違う」

 私はようやく反撃に出る。坂本にこれ以上言いたいように言わせておくわけにはいかない。

「山田さんが違うって言っているのは何について?」

「あなたの言っていることは何もかも間違っている。あなたがあなたについて語ることも間違っているし、あなたが私について語ることも間違っている。あなたの言っていることで正しいことは何一つとしてない」

「興味深い」と坂本が言う。

「山田さんってさすが藤原の元友人だけあるよね。周知の通り、学年首位はつねにぼくか松井さんだったけど、いくつかの科目では山田さんか藤原に負けそうになったこともあったくらいだから。まあぼくも松井さんも山田さんも藤原も、こんな地方の自称進学校にはもったいない逸材だと思うよ。ぼくは――」

「私が藤原と友人だったなんて情報、どこから聞いた?」

「藤原が言ってたんだ。小学校のころまでは山田さんと幼馴染と言ってもいいくらいの親友だったって。家族ぐるみで仲よくしてたらしいじゃない。藤原からは色々君の話を聞かせてもらったよ。藤原は何かにつけて山田さんの話をしていた。君がどう思っていたかは知らないけど、少なくとも藤原は山田さんのことをずっと友だちだと思っていたんだ。でも、中学に上がったころから藤原は周囲に疎まれるようになって、山田さんとも疎遠になってしまった。藤原はそのことをずっと気にしていた。もしかしたら自分が山田さんに何かしたせいで嫌われてしまったんじゃないかってことあるごとに言っていた。山田さん、君はどうやら勘違いしているみたいだから、この機会に訂正させてもらうけど、ぼくと藤原は正真正銘の友だちだったんだ。ぼくは藤原をいじめたことなんか一回もない。少なくとも直接的にいじめたことは一回もない。藤原をいじめてたのはぼくの周りの野球部の連中だ。そういう意味ではいじめを止められなかったぼくも間接的に藤原をいじめていたと言われても仕方ないだろうね。でも、ぼくの立場も想像してみてほしい。ぼくにだって人付き合いというものがある。野球部の連中が藤原をいじめている現場に遭遇したところで、ぼく個人にいったい何ができるというんだ。山田さんはぼくのことを藤原に対するいじめのリーダー格か何かのように思っていたかもしれないけど、それは全くのでたらめだ。確かに僕は4番でピッチャーのエースだけど、だからといって部内でそこまで絶対的な権力を持っているわけじゃない。集団を前にしたらどれだけ確固たるパーソナリティを持った個人だってもろいものだ。ぼくだってまさか藤原が自殺するなんて想像してもいなかった」

 坂本はそこまで話してしまうと一旦喋るのをやめた。坂本の顔は苦悩で歪んでいるようだった。ほとんど泣き出しそうにさえ見えた。

「山田さんも藤原の自殺配信は見ていただろ。もちろんぼくも見ていた。でもぼくには何もできなかった。自殺の直前にはこれは本当にやばいと思って藤原に電話もしたけど、配信中だったから気付いてもらえなかった。本当に何もできなかったんだ。そしてそのまま藤原は自殺してしまった。だから山田さん、ぼくも責任をとって自殺しようと思う。それが藤原に対するせめてもの償いだ。藤原がそれを望むかどうかは関係ない。あくまでもぼくの気持ちを納得させるためなんだ。まあ死んでしまったら気持ちも何もないだろうけど。さあ、山田さん、そろそろ時間も遅くなってきた。紅茶は冷めてしまったけれど仕方ない。帰ったら今日ここでぼくと話したことは忘れてほしい。できればぼくが死んでしまった後も誰にも言わないでほしい。それがぼくから山田さんへの遺言だ」

 私はもう何も言えなかった。私は何もわかっていなかったのだ。私は藤原について何もわかっていなかったのだ。もしかしたら自分についてだって何もわかっていなかったのかもしれない。私は無力だった。私にはもう何も残っていなかった。私はいままでも何者でもなかったし、きっとこれからも何者にもなれないままなのだろう。

 坂本に促されるがまま、私は家から出て、門の外に追い出された。坂本は別れ際に門の向こう側でこう言った。

"Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.(語りえぬものについては沈黙せねばならない)”

 翌日、坂本の死は地方一帯に衝撃的なニュースとして広まった。藤原の死なんかよりもよっぽどセンセーショナルな扱われ方だった。しかし、公式にメディアで扱われることは一度もなかった(あくまでSNS上や井戸端会議でのうわさ話レベルだった)。恐らく坂本の両親の希望で何らかの圧力がかけられたのだろう。死亡時の状況も明らかに自殺だと断定できるものだったため、県警の捜査も形通りのもので済んだそうだ。坂本のSNSの最後の投稿は、「#Lemming」のハッシュタグとカッターナイフが写っている画像だったそうだが、私は直接確認していない(恐らくSNSのアカウントについても坂本の両親が早急に何らかの手段に訴えて削除したものと推測される)。坂本の葬儀は近親者のみで行われ、恋人だった松井ですら参列することを許されなかったということだった。松井はほどなくチアリーダー部の部長を辞めた。部活まで辞めるということはしなかったようだが、もう前ほど力を注げる状態にはないようだった。つねに学年首位をキープしていたテストの成績もさんたんたる結果に終わった。松井は学校にこそ来ていたが、たまに廊下ですれ違ったときには何だか別人のようだった。それはもう松井ではなかった。それはもはや松井の抜け殻というか、かつて松井だった人間にしか過ぎなかった。

 坂本の死後、しばらくして私は一度松井と話をする機会があった。もういまとなっては、いつ・どこで・何を・話したのかも覚えていないし、私がどういう返事をしたのかも記憶にない。ただ、松井が私に言った一言だけはいまでも明確に覚えている。そのときの松井の顔つきや、奇妙に歪んだ表情や、挙動不審な仕草も鮮明に覚えている。まさか松井から私にあんなことを言われるだなんて全く予想していなかったから、その言葉は鋭利なカッターナイフのように私に突き刺さった。そしてある意味では私も血を流すことになった。そもそもどうして私があんなことを言われなければならなかったのか、いまだによくわからない。しかし、私はもう二度と松井と話をすることはないだろうし、松井からも二度と話しかけてくることはないだろう。もはや人々の真意は膨大な時間の流れの巨大な渦に飲み込まれてしまって確かめようがない。私にも、松井にも、坂本にも、藤原にも、そしてあなたにも。

 恐らく私は将来的にいずれ地元を出て、東京の大学に進学して、新しい友人と出会ったり、人生をともにする恋人と巡り会ったりするだろう。大学卒業後はできることなら出版社で仕事をして、郊外の安すぎも高すぎもしないちょうどいいマンションに住んで、可能であれば毎日簡単な料理くらいは作って、毎日風呂に浸かってていねいに頭と体を洗って、眠る前に小説を読んだり、映画を観たりしたい。あるいは音楽を聴くか、画集を開いてもいい。そしてまぶたが重くなってきたら、シングルサイズのベッドに横になって、明日のことを、将来のことを想像するのだ。しかし、それでも遠い過去からのエコーとして(あるいは一種の呪いのようなものとして)、毎日のように私の耳元で囁く声がするだろう。そういう予感がする。

「あなたが殺した」

(完)

thx :)