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レイモンド・カーヴァー『夜になると鮭は』について語るときに私の語ること

夜になると鮭は
レイモンド・カーヴァー

夜になると鮭は
川を出て街にやってくる
フォスター冷凍とかA&Wとかスマイリー・レストランといった場所には
近寄らないように注意はするが
でもライト・アヴェニューの集合住宅のあたりまではやってくるので
ときどき夜明け前なんかには
彼らがドアノブをまわしたり
ケーブル・テレビの線にどすんとぶつかったりするのが聞こえる
僕らは眠らずに連中を待ちうけ
裏の窓を開けっぱなしにして
水のはね音が聞こえると呼んでみたりするのだが
やがてつまらない朝がやってくるのだ

レイモンド・カーヴァー『ファイアズ(炎)』より

 以上はレイモンド・カーヴァー『夜になると鮭は』という詩の全文である。私は昨日の夜、この詩を読んで衝撃を受けた(『夜になると鮭は』が収録されている『ファイアズ(炎)』は90年代に刊行されているので、衝撃を受けるにはあまりにも遅かったのかもしれないのだが、まあ私は90年代半ばの生まれなので仕方ないといえば仕方ない)。

 とにかく一行一行のフレーズが完璧で、一行たりとも格好よくない行がない。短い詩ではあるが、他のどんな詩人のより長い詩にも匹敵するクオリティの作品だと感じた。

 以下、『夜になると鮭は』の詩の一行一行を引用しながら、できるだけ詳細に分析していきたいと思う。

 まず一行目と二行目。

夜になると鮭は
川を出て街にやってくる

 擬人化された鮭が川を出て街へやって来るという、寓話的というか、マジックリアリズムというか、とにかく不思議な予感を感じさせる始まりだ。鮭というのが単数なのか複数なのか、まだここでは明確に示されてはいないが、個人的には大量の鮭が川からひっそりと人間の住む街へやって来るというイメージを想像させる二行だと思う。素晴らしい始まり方だ。

フォスター冷凍とかA&Wとかスマイリー・レストランといった場所には
近寄らないように注意はするが

 つぎに三行目から四行目。ここでは「フォスター冷凍」、「A&W」、「スマイリー・レストラン」という恐らくは実在の企業なり店舗なりの名前が効果的なディティールとして使われている。一応、インターネットでそれぞれの名前について調べてみたのだが、まともな検索結果が出てきたのは、「A&W」の一つのみだった(アメリカ発のハンバーガー・レストランの名称らしい)。

 「フォスター冷凍」、「A&W」、「スマイリー・レストラン」と言われても、日本人であるところの我々には(というかアメリカ人以外には)具体的なイメージを描くのは難しいわけだが、それでもこの名称の並びが効果的であることはわかる。名称の並べ方の順番も実に巧みだと言わざるをえない。ここはどうしても「フォスター冷凍」、「A&W」、「スマイリー・レストラン」という並び方でないといけないという、一種の必然性が感じられるのだ(これが『スマイリー・レストラン』、『A&W』、『フォスター冷凍』の順番ではいけないという感覚)。

 「近寄らないように注意はするが」という一行も実に気が利いている。ここは村上春樹による翻訳の妙だと思うが、「近寄らないように注意するが」ではなく、「近寄らないように注意はするが」という文章になっていることによって、前行のディティールの羅列からのリズムを上手い具合に保っている。「は」があるのとないのとでは詩のリズムが大きく違ってくるのだ。

でもライト・アヴェニューの集合住宅のあたりまではやってくるので
ときどき夜明け前なんかには
彼らがドアノブをまわしたり
ケーブル・テレビの線にどすんとぶつかったりするのが聞こえる

 五行目、六行目、七行目、八行目は一気に見ていこう。

 「ライト・アヴェニュー」というのも私の知識不足のせいか、具体的にいったいどんな場所なのかが想像しがたいわけだが、恐らくは郊外の地名というような認識でそこまで間違ってはいないだろうと思う(もし読者でご存知の方がいらっしゃいましたらぜひご教示ください)。

 とにかく鮭たちは川を出て、街へやって来て、「フォスター冷凍」やら「A&W」やら「スマイリー・レストラン」やらといった企業を巧妙に避けるように移動し、「ライト・アヴェニューの集合住宅あたりまで」はやって来たのだ。

 そして「ときどき夜明け前なんかには 彼らがドアノブをまわしたり ケーブル・テレビの線にどすんとぶつかるのが聞こえる」のだが、ここの描写もまた異様な雰囲気を感じさせる。何しろ夜中に鮭たちが集合住宅のドアノブをまわしまくったり、ケーブル・テレビの線にぶつかりまくったりしているのだ。住民たちはベッドの中で気が気ではないだろう。

 「ドアノブをまわしたり」、「ケーブル・テレビの線にどすんとぶつかる」というのもたった二つのアクションの描写ではあるが、効果的に配置されていることがわかる。一種ユーモラスな雰囲気をともなって、鮭たちが巨大集合住宅の中で右往左往している様子が思い浮かべられる秀逸な描写だ。

僕らは眠らずに連中を待ちうけ
裏の窓を開けっぱなしにして
水のはね音が聞こえると呼んでみたりするのだが
やがてつまらない朝がやってくるのだ

 そして九行目、十行目、十一行目、十二行目の終結部である。ここで初めて「僕ら」という人間側の視点が提示されるのだが、それがまた自然に感じさせられるのはレイモンド・カーヴァーのテクニックのなせるわざだろう。「連中」という鮭たちに対する人称もコミカルな響きと一種の敵対心のようなものを同時に感じさせて素晴らしい。

 鮭たちを待ちうけていた「僕ら」がいったい何をするのかといえば、「裏の窓を開けっぱなしにして」、「水のはね音が聞こえると呼んでみたりする」のだが、ここもまた非現実的に美しい描写だ。夜中に人間たちがマンションの裏窓を開けて、鮭たちに声をかけているというファンタジックな情景が一気に立ち上がってくる。もちろん郊外の集合住宅に川などあるはずはないのだから、「水のはね音が聞こえる」というのはいささか不可解とも感じられる描写なのだが、それすらもリアルなものとして半強制的に感じさせられてしまうところがものすごい。

 そして冒頭の「夜になると鮭は」に対応するように置かれているラストの「やがてつまらない朝がやってくるのだ」という一行は、私がこの詩の中でもっとも好きな部分である。この無常観と諦観のにじんだ一行の素晴らしさ。寓話的な世界観をここまで提示してきたこの詩を終結部で一気に現実世界に引き戻すこの強引さ。レイモンド・カーヴァーは小説も書いている作家でもあるのだが、そちらの作品にも通じるようなハードなリアリズムといったものさえ感じさせる。「やがてつまらない朝がやってくるのだ」。何回も口に出してみたくなるフレーズである。などと批評的な目線を忘れて個人的な趣味嗜好で語りたくなってしまうほど素晴らしいフレーズだ。

 以上が私のレイモンド・カーヴァー『夜になると鮭は』評である。私のつねではあるけれど、批評というよりエッセイに近い雰囲気のテキストになってしまったが、昨日の夜に感じた興奮をそのまま真空パックするような形でこれを書けたことは私にとってよきことだったと思う。

 ちなみに、フォロワーの方からご紹介いただいたのだけれど、ceroが『夜になると鮭は』という同タイトルの楽曲で、非常に洒脱なトラックに乗せてカーヴァーの詩を朗読している。Spotifyなどでも配信されているので、そちらもチェックしてみると、また違った角度から『夜になると鮭は』という詩を楽しめるかもしれない。

thx :)