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デジタルとアナログの間で揺れましょう

ネガティブなポストはポジティブなものより早く拡散されるという。
実感として、その通りだと思う。

この現象は、人の悪意の表出以外の何物でもない。

とにかく敵が欲しいのだ。
とはいえ、ヒーローもんの主役じゃないんだから強大な魔王みたいなものは求めていない。自分でもやっつけられる適度な敵が欲しいのだ。

言い換えればマウントをとって優位にたちたいのだ。

これは、DNAに深く刻み込まれた業なので無視するわけにはいかない。

つまり、道徳教育のように醜さにフタをする形式では、どうにもならない。
生まれ変わってやりなおすしかない、といった殺し文句にも意味は無い。

虫でも植物でも、どんなものに生を受けたとしても、すべてのシチュエーションにおいて競争が待っている。

私たちは生物として、他者を他の種を駆逐したいという欲望を抱いた存在として自分を認識する必要がある。

ちなみに、この欲望は、仲間を大事にするだとか、仲間を慈しむといった感情とはなんら矛盾しない。

仲間を大事にするから、仲間以外には人権を与えないし、敵を殲滅しようと思うから、仲間と協力する。

博愛主義は薄愛だし、敵にしたら怖いやつは味方になると頼もしい。

デジタルな繋がりは、負の側面を加速させる。仲間を見つけやすいと同時に敵も認識しやすい。

インターネットで便利になった。
はたしてそうなのだろうか?
のんびり待てば良かったものを、早くしようとしているだけなのではないか。
生産性という何のために上げなきゃならんのか分からない数字に踊らされているだけではないのか? それが上がることで我々の生活は楽になったのだろうか? 精神的ゆとりは増えたのだろうか?
それが上がると喜ぶのは一部の資本家なのではないだろうか? 資本家が他の資本家を駆逐するための競走に、一般の労働者は巻き込まれているだけではないのだろうか?

DMもメールもLINEも、すぐに返さないといけないような気がするのは、デジタルのドレイと化した脳が勝手に言ってるだけなのではないだろうか?

AIの進歩が著しい。絵は描ける。文章も作れる。音楽も創れる。多分すぐに映画も作れるようになるだろう。
すすんでAIのドレイになってやろう、という人はどれぐらいいるのだろう?
難しいことではない。我々には前科が沢山ある。いつの間にか服従させられている。
手書きの手紙の方が心がこもる。と主張する人は年々少なくなっている。

考えて見てほしい。
モノの価値というものは、需要と供給できまる。レアなものは価値が高い。
遠くない未来。世の中はAIコンテンツで満たされる。手作りのものは、伝統芸になっているだろう。
手作業を機械がとって替わったように。
イラストも音楽も映像も、AIが蹂躙する。安くて早い。それでいいじゃないか。私達はそんなものを志向し、そんなものを溢れさせてきた。
ただし、そんな世界でも職人の手作りにこだわる人はいる。それがレアだから、価値が出るのだ。

だから、手作業の世界がなくなることはないだろう。ただし、レアだと思われる程には規模が小さくなるはずだ。

逆説的だが、AIの波に乗らなかったアナログな人が生き残るのだ。
最先端で乗っている人は、もちろんAIを制御するルーラとして生きる。
中途半端に乗ってしまうとAIに使われる役割が待っている気がする。

今一度問おう。

さて、デジタル技術は我々をゆたかにしたのだろうか?

世界を頑なで一様なものにし、支配層と被支配層の差を加速させているだけではないのだろうか?


ああ、また瞬停だ。ちょっと眠ってしまった。
ここで終わり。

脈絡なく書きたい放題書けるのが一番楽しい。

おやすみ。

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