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7/5-7/11 ブラインドタッチ練習用日記

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そんなわけで日本にやってきた。新型コロナによる緊急事態が到来してからは、昨年の夏に続いて二度目の日本入国だ。いろいろと聞いていたわけではあるが、入国のプロセスは昨年と全然違っていた。何が違うかというと、かなり厳密化し、複雑化し、闇深くなっていた。

昨年7月の入国はシンプルといえばシンプルではあった。飛行機の上で健康状態の報告書や何やらの書類を書かされまくるのは同じで、うちは5人家族であるから手がクタクタになるくらいには何度も何度も同じ住所や名前を書くみたいなことをやっていくわけだが、それは良いとして、飛行機が日本に着陸すると、まずそのへんの書類をチェックして、すぐに鼻の奥に綿棒を突っ込む「オエッ」てなるタイプのPCR検査。

その後はすぐに入国審査があって、入国後は係の人がついて、段ボールのベッドが置いてある隔離ゾーンみたいなところに連れて行かれてそこでしばらく隔離された後に、チャーターしていた専用ハイヤーで宿泊先に移動、という感じだった。PCRの結果はその場では出ない仕組みだった記憶がある。もちろん時間は食うのだが、手数としてはそんなに多くない印象だった。

当時の記憶として強烈だったのはやはり上述の段ボールベッドと、パンデミック検疫に因んだゆるキャラである「クアランちゃん」がやたら各所でフィーチャーされていて、クアランちゃんのうちわとかをもらった記憶がある。「クアランちゃん」の「クアラン」というのは英語の「隔離」=”Quarantine” に由来している。当時はアメリカ、特にニューヨークは新型コロナの状況は間違いなく地獄絵図になっていて、とにかく深刻だったので、我が国における検疫所に漂う謎の「夏祭り感」に面食らったものだ。

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あとは、これは今年も聞かれなかったのだが、新型コロナへの感染歴を全く聞かれなかったのに結構驚いたものだ。我が家は全員その時点で感染歴があったわけだが、そのへんのデータは取らなくて良いのかな? というのは思ったものだ。ちなみに今年は、ワクチンの接種有無も聞かれなかった。これで良いのかな・・・という想いは深まる。

それ以後、(我が家は東京に家があるので)帰宅後も、たまーに機械音声の電話があるくらいで、あまり具体的に行動はトラッキングされることもなく、もちろん我が家は2週間家にこもっていたが、やろうと思えばどこにでも出かけられるようなゆるさがあった。

ところが今年の入国・検疫事情は、昨年とは大きく変わっていた。感想としては、「どうしてこうなった・・・」としか言いようがなかった。

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まず、上に書いたように、飛行機の中で書かなくてはいけない書類の量はあまり変わらなかった。家族5人分を書くのは大変だが、仕方ないかというレベル。こういうのも総じてデジタルでやってしまった方がエラーが少ないし良いとは思うが仕方ないだろう。

飛行機から降りる順番は、前回は結構厳密で、少しずつ降りるシステムで場合によっては降りるまでにすごい時間のかかる形だったが、今回はそういうこともなかった。

飛行機が羽田空港に到着する。飛行機を降りるとすぐに、書類確認用のレーンが2つに分かれる。「オリンピック関係者用」のレーンと「一般人用」のレーンだ。私が着いた際はオリンピックのレーンに入っていく人はいなかった。

記憶があやふやになってしまっているところが結構あるが、まず、レーンに入るところで書類の確認。そこから、PCR検査会場まで矢印で誘導されるが、この距離が半端ない。我々の飛行機が着陸したゲートがそもそも検査会場から離れていたのもあるのかもしれないが、いつもの入国ゲートを越えて空港の端っこから端っこまでというレベルで歩く。これは老人とか相当辛いだろう。

検査会場近くに着くと、「QRコード登録がまだの方は登録してくださいー」と言われて止められる。周りの人は結構わかっているようだったが、自分のスマートフォンからアクセスして表示されたウェブサイトから、さっき飛行機で記入したのと同じような内容の健康報告みたいのを登録することになる。それらを登録すると画面にQRコードが表示されて、これをスクリーンショットなりプリントアウトするように言われる(飛行機の座席番号とか、飛行機に乗らないと確定できない情報も結構あるので、プリントアウトは多分無理だろう)。基本的に、スマートフォンを持っていることは大前提になっている。

その後はまた書類のチェック。歩く。書類のチェック。歩く。書類のチェック。みたいな感じで書類をチェックするブースが複数設置されていて、各書類のチェックが行われていく。一緒にチェックすれば良いのになあとも思うが仕方がないのかもしれない。しかしこの辺のチェックというか、関門の数は明らかに何個か増えていた。

その後ようやくPCR検査。多分このへんで既に着陸から1時間くらい経っている。

PCR検査は、鼻から綿棒を突っ込んでウッとなるやつではなく、唾液での検査になっていた。これは良かったのではないかと思う。唾液採取用のプラスチックの試験管に貼ってある番号と、書類に貼ってある番号とが対応している。唾液を絞り出してPCR検査を終える。

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PCR検査が終わると、今度は隔離監視用のアプリのインストール確認コーナーだ。ここが結構カオスだった。

まず、13歳以上の人はスマホを持っている必要があって、もし持っていない場合は自費でレンタルをする必要がある。それはそういう決まりなら良いのだが、どうにもやっていることがしっちゃかめっちゃかであるように思えてならない。というのは、政府が入国者に要求しているここまでの対応が、スマートフォンを持っていて使いこなせることが前提になっている場合と、スマートフォンを触ったこともないような人を対象にしているようなアナログな処理が前提になっている場合とでごちゃ混ぜになっているようにしか見えないのだ。スマホを持っていない人向けに配慮されている場合と、スマホを持っていない人に全く配慮しない場合がある。で、結局このタイミングになってスマホを持っていることを明確に求めてくる。言いたくないが、まともなディレクションが入っていないように思える。いろんな都合が足し算されていってキメラのようなUXが出来上がってしまうのは我が国の常だが、常に振り回されるのはユーザーの方だ。

それでいうとアメリカも大概乱暴だが、アメリカはおそらくこういう場合完全にスマホ所持者を前提とするルールに最初から一貫するような気もするので、そこはマシなような気がする。日本やアメリカで暮らしていると、例えばフィンランドの鉄道の券売機とかいろんなUX/UIに触れると、すごく感動する。勝手を知らない外国人でも絶妙に混乱しないようにデザインされていたりする。

14歳の長男はスマホを持っていなかったので、私の検証用のpixel端末を貸してどうにかした。
で、さらにめちゃくちゃなのがその先で、いろんなアプリをそのスマホにインストールするためにインストラクターみたいな人が見てくれるのだが、そのインストラクターさんたちがほぼ全員、明らかに日本の方ではないのだ。別に日本人ではない方がそこを担当してはいけないとは全く思わないが、他のゾーンでは全くそんなことはないのに、ここのゾーンだけ何故か恐らく中国人の方々がカタコトの日本語でアプリのインストールを促してくる。どういう都合かは全くわからない。もちろん、カタコトではあるので不便は感じるが、致命的な問題があるわけでもない。

しかし、その場をさらにカオスにしているのが、その中国人の方々に、上司?であろう、仕切り役の日本人のおじさんが、ひどい怒号を浴びせているのだ。「そっちじゃねえよ!」とか「違う違うちがう! あっち対応して!」みたいな感じの、まあ、なんていうかブラック現場状態になっている。目を覆うような劣悪な感じ。

あとで入国後、この係の中国人の方々が仕事を終わって、上司に引率されて帰るところを妻が目撃したらしいのだが、その方々が「ふざけんなよ」とか上司に文句を言って揉めていたらしい。

そして、さらにそのアプリインストールのチェックポイントで行われているのが、アプリのインストールや通知設定の確認を紙の書類でチェックする、というプロセスだ。ここでさらに絶望させられるのが、この紙の書類でのチェック、何でチェックしているのかというと、驚くべきことに「印鑑」だ。アプリのインストールが適切になされているかどうかを印鑑でチェックしている。これはシュールだ。デジタルな何かの承認に、印鑑を使う。どうしてこうなったのか。


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スマホアプリは三種類入れることになる。例のCOCOAと、たまにGPS情報を政府なりに送信する位置確認アプリ、政府から状況確認のビデオ通話みたいのがかかってくるアプリ。それらから断続的に通知が来たり、登録したメールから健康状態を報告するような仕組みがあったりする。しかしそれらは割と性善説に基づいてつくられていて、かなり自主的に気をつけていないと対応できないような感じのUXになっている。実際、私も肌身離さずスマホを身につけているわけではないので、到着以来一度着信を逃してしまった。あと、リモートで打ち合わせしててしゃべったりしているとそんなにちゃんと対応できなかったりはする。

今日の時点でちょうど東京はまた緊急事態宣言になるのかどうなのかみたいな話が出てきているが、最初の方で触れた通り、羽田空港は随分とオリンピックフォーメーションになっていて、人員もそれなりにそこに割かれているように見えたし、専用のカウンターや専用のテントなんかも立っていた。

流石に海外からの一般客は来ないのだろうし、オリンピックが無観客になるのかどうかみたいな話もあるのだろうけど、バブル形式であるとか、徹底管理であるとか言っても、上述したような形での管理がいろんな国からやってくるいろんな人たちにちゃんと行き届くというか、みんなちゃんとやってくれるとは到底思えない。アメリカで、特にニューヨークという人種の坩堝というかいろんな人がいろんなことをやっている場所を拠点にしてきたので、肌感覚として思ってしまうが、多分こんなかっちりとしたシステムについていく人は全然いないだろう。いろんなところからいろんな人を呼ぶということ、それをグローバリゼーションとか呼ぶのかもしれないが、それはそういうことで、幅広い種類の幅広い考え方の人たちにわかってもらえるソリューションを提供しないとどうにもならないということなのだ。

ニューヨークであるとかアメリカはそんなわけだから、かなり初期から、「これは各々が自主的に徹底管理するのは無理」という考え方に則って、強制的な屋内飲食停止とか学校の封鎖なりの措置を取って、それでもやはりちゃんと管理できるはずなどないので、この一年ちょっとはまさに地獄を見ることになったわけだし、ゆえに、ワクチンが登場するまで全くどうにもならない状況ではあったわけだが、施策としては基本的に、「どうせみんなちゃんと協力はしてくれないだろうな」という諦めをベースに構築されてきた感じがある。

そういう意味で、現状の日本のやり方は、空港でのこの冗長すぎるオペレーションひとつとっても、かなり、オリンピックといういろんな人がいろんなところからやってくるイベントとは相性が悪い。ブラジルのコパ・アメリカでは、バブル形式を徹底すると政府が謳っても、実際選手が自分たちの宿舎に人を呼びまくったりして感染を広げたりしているわけで、もうそこにはどうにもならない価値観や行動規範の多様性というものがある。何も起こらないことを願うしかないが、着陸から入国までの4時間くらいの体験で、この日本という国の総合的な世界に対する音痴な感じを肌で感じてしまって鬱々とせざるを得なかった。


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そうこうしてスマホアプリのインストール確認を行った後も、書類のチェックがまだある。最初に登録したQRコードに組み込まれた情報とパスポートの情報を結びつけてデータベースに入れる工程とか(これもこんなまどろっこしいやり方しなくて良いんじゃないかと思うが・・・)、先ほどの中国の方々と打って変わってこの工程は女子大学生のアルバイトのような方々だけでオペレーションされていたりとか(私のときは本当に若い女性しかいなかった。それ以外いなかった)、なんでコーナーごとにこんなにクラスタが違う感じなんだろうと思わされた。

最後は待合室でPCR検査の結果待ちを番号が呼ばれるまで待つことになる。ここは混み具合にもよるのだろうが、即日、しかも1時間弱で結果が出るようになったというのはすごいことだなと思う。

結果が出たら、やっとのやっとで検疫所を通過して入国審査。前述の通り、一度スルーした入国審査ゲートに、手荷物を抱えて一生懸命戻る感じになる。緊急事態だから我慢しろなのかもしれないが、空港の端から端までを1.5往復くらいさせられる感じはある。後で、妻が万歩計か何かで距離を測っているのを聞いたら本当かどうか知らないが合計で3kmくらい歩いていたらしい。そんなにあったかどうか忘れてしまったものの、そういうレベルでたくさん歩いたのも確かだ。入国審査から税関の流れはいつも通りで、公共交通機関を使って帰ってはいけないのも昨年と同じ。

検疫所のカウンターのすみっこに、前述の「クアランちゃん」のぬいぐるみが座っていた! 「あ! クアランちゃんだ!」と言うと、係の方が嬉しそうに、「あ! ご存知なんですね」と、反応してくれた。

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そんなわけで、思うところもあり、というか、明らかに昨年よりも対応をこじらせてしまっていて、オリンピック云々も含めた闇を感じざるを得ない、まるで和製ロールプレイングゲームのような順番謎解きアクティビティになってしまった2021年夏の日本の入国について書いてみたが、相変わらずブラインドタッチの練習にかこつけてこの文章を書いている7/9現在、私は既に日本にやってきて5日目になり、すっかり梅雨で湿気の多い故国の住人になっている。

ここまでさんざっぱら文句を書いているが、アメリカという、全面的に雑でクオリティが適当な社会から故国に戻ってくるたびに、上記のような構造的な問題、融通の効かない傾向にうんざりしつつも、「ああ、日本最高だ。最強だよ。」と感極まるしかないいろんな豊かさがこの国には随所にある。総論として、日本は確実にすばらしい場所だ。素晴らしい国、とは言わないが、素晴らしい場所だ。

もうこれは、細かいところから枚挙にいとまが無い。思いついたものから列挙していく。

まず、きゅうりが異常に美味しい。日本のきゅうりの美味しさは異常というか、次元が違う。というか、アメリカのきゅうりというかキューカンバーの粗野さというのは、逆の意味で次元が違う。アメリカのきゅうりには味も香りも無い。言ってみれば、「水分棒」だ。きゅうりの形をした水分の多いしゃりしゃりした何かでしかない。コクというものが皆無だ。しかし、アメリカの暮らしに慣れていると、きゅうりというものへの期待というのはいつしか失われていく。きゅうりにコクや香りを求める、ということがそもそも間違っている世界線で生きていくことになる。

そして日本のきゅうり。一口かじるだけで、「あれ? なんですかこの甘みは?」と、その繊細で新しい味わいに第三の目が開く思いがする。これは水分棒などではないし、ひとつの存在感を持った食材だ。日本に住んでいた頃は、きゅうりにそこまで感動することはなかった。アメリカで暮らしていて、たまに日本のきゅうりに触れると、五感を駆使した今までにないきゅうり体験ができることになる。


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そんなわけで、日本のきゅうりというのは、アメリカの一般的なきゅうりもとい水分棒と比べたらもうこれは「甘露」だ。

日本の素晴らしさはそれだけではない。例えばサランラップだ。サランラップというより、いわゆる食品用のラップだ。日本のラップというのはサッと切れて耐久性も良い。これは日本で暮らしているとよくわからない。なぜかというとそれが当たり前だからだ。

であるがゆえに、アメリカの食品ラップというものに日本人が向き合ったとき、そこで感じてしまうのは、国の違いとかそういう生半可なものではなくて、もっと根深い、イデオロギーの避けられない違いとか、そういう不可逆なものだ。

まず、アメリカの食品ラップの箱にも、いわゆるノコギリ状のカット面があるわけだが、これは全く機能していない。力を入れても全く切れない。切れないのでラップをツニューっと伸ばして無理やり引き切るような感じになる。お皿とその上に乗った食品を覆うべくラップを引っ張って切るわけだが、引き切った反動でラップがシワシワッと反動して、全く狙った通りに食品を覆うことができない。結果、一度ラップを切った後に再度伸ばして無理やり食品を覆い直すことになる。こんなの、明らかにユーザーエクスペリエンスとして伸び代しかないくらい成立していないのに、この8年くらいずっと同じだ。

さらには、このラップを前日に残したオニオンリングにかぶせて電子レンジで温めたとする。そうすると何が起こるかというと、ラップの耐熱性がなくって、すぐにラップがオニオンリングに対してへチャッとなってくっついてしまう。要するに溶ける。間違えて熱しすぎると本当にオニオンリングと同化してオニオンリングを食べることができなくなる。

本末転倒とは何か、という話だが、これがアメリカのサランラップ、もといアメリカという国だ。そして、日本の食品ラップは、圧倒的に正しいというか真っ当なユーザーエクスペリエンスを提供している。

日本の人たちが、グローバルなIT領域なりでボコボコにやられっぱなしのアメリカという国は、真っ当な食品ラップをつくることができないという面もあるし、真っ当なきゅうりを育成することができないのだ。

日本は多面的に見て素晴らしい。他にもいろいろある。薬局の店員は舌打ちしないし、ディズニーランドの係の人も舌打ちしない。サービス業に従事する人が誰も舌打ちしない。日本で暮らしていると当たり前のように感じてしまうが、日本は素晴らしい。

それなのに、ある一定の領域においてはアプリのインストールを印鑑で承認するというような致命的な機能不全を起こしてしまう。つまり、日本という場所においては、仕組みを考える人や構造を設計する人、或いはそれに決裁を出す人の能力というのが多分どうしようもないことになっていて、一方できゅうりを育てる人だったりラップの改善に努めているようないろんな現場の人たちがとても優秀で、能力を発揮している、ということにもなる。しかもすごいことに、恐らく社会的なポジションにしても得ている報酬にしても、仕組みを考えているマネジメント側が優遇されている。繰り返すが、日本は素晴らしい。素晴らしいが病気だ。


7/11

そんなこんなで今週はほぼ1週間にわたって現時点における日本の入国プロセスとかきゅうりがうまいとかラップが切りやすいとかの話を書いてきたが、そうこうしているうちに日本にやってきて1週間だ。2週間の隔離生活も折り返しを迎えつつある。

昨年も同じ時期に日本にやってきたのだが、昨年は大相撲7月場所が新型コロナウィルスの関係で通常より遅い開催となった上に両国だったので、隔離明けでしばらくしながら、国技館に観戦しにいくこともできた。が、今年は逆に例年より1週間前倒しなので、隔離期間にぴったりはまることになった。初日に隔離が始まって千秋楽に隔離が終わる。

先週のこのブラインドタッチ練習日記に、相撲のことばかり書くことになるだろうとか書いておいてすっかり別のことを書いてしまったが、早いもので7月場所・名古屋場所もはや中日だ。中日朝の時点で、照ノ富士は7連勝。照ノ富士の相撲への向き合い方というか、アプローチとでもいうのか、そういうものは毎場所変わる。比較的若い相撲で取りこぼしも結構あった中で優勝した三月場所、大関に上がって、突然魔王のような強さにバージョンアップして他を圧倒しつつも後半これでもかと試練が降ってきた夏場所、そして今場所は初日からの前半戦、相手にある程度存分に相撲を取らせてからそれを封じる、という、一方的な相撲よりもさらに横綱相撲といっても良い取口を見せてきた。「相手の持ち味を引き出す」ような相撲だと言っても良い気がする。相手の力士にしてみれば、これだけ良い形になっても勝てない、という結果になり、一方的な負けよりもさらに恐怖を抱いてしまう相撲ということになるのではないか。

ここ2日はそこから変わって一方的な相撲を見せているが、確かに照ノ富士は毎日のように横綱の資格を獲得していっているように見える。幕内復帰でいきなり優勝した昨年の7月場所の全取組を見直してみると、今からは想像できないくらい危なっかしい相撲を取っていて、今では絶対に抗うことができなさそうな絶対的な凶器である左上手すらも絶対ではないようなゆるさというのがある。そのゆるい状態が突然バージョンアップして、上位で戦える厳しさに転化したのが昨年の7月場所の13日目の朝乃山戦で、今の照ノ富士の形というのはあの一番からの流れにあると思う。千秋楽の御嶽海を寄り切った一番もあの朝乃山戦の厳しさを踏まえた上での結果だったように見える。

そして今場所は、誰もが恐怖するようになった左上手が取れなかった場合でもいかに落ち着いて防御できるのか、が別の名人芸として確立されつつあるように見える。こうなると、恐らくしっかりと組み合う展開になるであろう白鵬との一番はむしろ心配ではないし、高安との勝負づけを確定させることさえできれば全勝も行けるのではないかと思う。

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