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世界と向き合うゲーム

神話の御世にあって、神とは即ち力のことである
ARMORED CORE 4

※この記事には『ELDEN RING』のネタバレが含まれています
(画像引用元)


フロムゲーはここに完成した。
そう言って反対する人は、きっとそんなにいないと思う。

『ELDEN RING』はフロムソフトウェアのソウルライクにおいて最高傑作であり、集大成でもある。ここであえて個人的な好みを言わせて貰えば、世界観やルックとしては「ブラッドボーン」の方が好みではあるし、プレイングのスタイリッシュさや幾つかのドラマチックなシーンによる魅せる力は「隻狼」方が上だ。それに、高難易度ゲームとして、そしてダークファンタジーとして理解を求めない超然とした姿勢という意味では「ダークソウル」の方がいわゆるフロムっぽさがあるだろう。
けれど、それでも「エルデンリング」はマスターピースであり、ある種のクライマックスであることに変わりはない。それは単にボリュームやクオリティ、そしてほんの少しばかり大衆に譲歩したその姿勢だけでなく、「神話」にあると僕は考える。


物語には根拠が肝要である。それはその世界を形作るための動機であり、その根底に存在する地盤を強固にするものだ。
例えばサイバーパンクにはサイエンスやポリティクスに対する関心があるし、スチームパンクにはもう廃れてしまったテクノロジーに対する郷愁がある。スペースオペラには宇宙への探究心があり、それらSFはどれも「いま、ここ」に根ざしてものだということは間違いない。
逆にファンタジーには異世界という「いつか、どこか」への憧憬があるというのはバットマンの記事でも書いた通りだ。
文学には「わたし、あるいはわたしたち」という人の内面に対する視座がある。
そして僕らが生きる現実という物語には、政治や経済や戦争や宗教や倫理や歴史や、何より僕らの身体というコンテクストが絡み合っている。

はっきり言って今までのフロムにはそれは欠如していた。ソウルボーンはファンタジーであることは間違いない。が、しかしそれはスタイルとしてのファンタジー、ファンタジーらしさの模倣であり、芯を欠いていたのだと、今は思う。
なぜならそこにはストーリーが無かったからだ。ダークファンタジー的な世界観はあれど、それを語るためのシナリオが脱落していたからだ。
ソウルボーンにはストーリーが無い。もちろんゲームとしての目的はあるし、その過程でNPCとの会話があり、ムービーがある。そういった起点ごとに話の進展はある。それをストーリーと呼ぶこともできるけれど、それは単に(というにはあまりにも引き込まれはするのだが)状況の変化であり、そこにはドラマを語ろうとする意思は無かったように思える。僕はACVDの記事でそれを”ただそこにある物語”と表現したが、それは同時に既存のストーリーテリングと距離をとっているという意味でもある。

もちろん、だから悪いということは決してない。ストーリーが無いことでRPGとしての没入感は高まっていたし、逆にそれを利用したフレーバーテキストやサブテクスト、そしてゲーム的なレベルデザインの演出によって世界の輪郭のなさはむしろミステリアスに昇華されていた、というのは誰もが認めるはずだ。
ストーリーではなく、世界観を語ることを要とする。それが意図的に発生させた状況にしろ、開発コストとの兼ね合いから生まれたソリューションにしろ、宮崎英高の作家性としてプレイヤーに強烈なイメージを植え付けることに成功していることに変わりはないのである。
それにそもそも、宮崎英高のフェティッシュと憧れによって構築された世界観はそれだけで独創的な魅力があったのだから。

そして今、そのイメージは覆された。
僕は「ELDEN RING」には明らかにストーリーがあると感じたのだ。
でも上述したスタイルは健在だし、難解な物語であることに変わりはないから、その辺は別に今までと変わらないんじゃないの?って思う人もいるだろう。
まあ、そうかもしれない。
ていうかなんなら舞台がリニアなステージではなくオープンなフィールドになったことでストーリーテリングとしてはどうなんだ、って意見もあるだろう。
けれど、そこにはこれまでにないものがある。
それが「神話」だ。

ジョージ・R・R・マーティンという人物がいる。
『氷と炎の歌』、そのドラマ版である『ゲーム・オブ・スローンズ』を知らない人はそうそういないだろう。ファンタジーといえばこれ、と言い切って間違いないほどの有名作品。ジョージはその創造主だ。

そんな彼がダークソウルを作った「あの」フロムとコラボする!
すげえ!どんな形で!?
神話部分で。
………?

まあ、正直言ってよくわからなかった。
彼が今作に関わっているというのは発売前のプロモーション時点で大きなフックとなってはいたが、きっとほとんどの人がピンときていなかっただろう。神話部分ってなんだよ、と。
そう、僕らは神話が持つ力というものに気付いていなかった。いや、正確には忘れていたのだ。
この世には聖書という神話をモチーフにしたフィクションが大量に存在するというのに。
物語を単体で完結させず、その根拠を外部の大きな物語に持たせることで規模感を演出し、同時にディテールを深読みさせられる手法はひどく普遍的なものとしてあったというのに。

フロムゲーは神話を獲得した。
それもこれまでのような茫漠として掴み所のないものではなく、しっかりとファンタジーの文脈に根を下ろし、それが確かにあったのだと感じさせる叙事性と重厚さを備えた物語。それが「ELDEN RING」の世界の根拠として黄金樹の如く屹立している。僕らの生きる現実がこれまでの歴史の流れの先にあるものだという疑う余地のない感覚のように、エルデは広大なフィールドと共に確かにそこにあった。

そして、その世界には確かにフロムのスピリットが生きている。僅かな甘えが即、死につながるシビアなゲーム性。息を呑むほど美しく、時々背筋が凍るほど悍ましい、暴力と官能が同居した幻想的ファンタジーな世界観。独特で、そして奇妙に魅力的なキャラクターたち。
今までのリニアなステージをオープンなフィールドに拡張しても、全く変わらずフロムらしさが息づいているのには職人芸とでもいうべき繊細なワザが求められたはずだ。大手のスタジオに比べて技術面で一歩遅れをとっている印象があったが、こんなものを見せられては杞憂と言わざるを得ない。「ELDEN RING」はゲームとして半ば現象となりかけているが、もうそれにふさわしいだけのクオリティと製作陣の地力を持っている。

もっと細かなところや個人的な体験について語りたいところだが、それはあまり意味のないことだから自粛しよう。今作は今まで以上にRPG色が強い。1200万以上の褪せ人がいれば、そこには1200万以上の物語がある。本人が体験すること以上のものは得られない。
しかし、幾千万の物語があっても、その全員が1つの世界を共有している。エルデ、狭間の地という美しく、残酷で、確かにそこにあると感じさせる密度を持った世界を、僕らは経験してしまった。

フロムは、僕らは、世界を獲得したのだ。

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