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それさえなければ…

君だからできたんだ!
君じゃなきゃダメなんだ!
俺は君が大好きだ!!

レントン・サーストン/交響詩編エウレカセブン



特にインターネットが生まれてからというもの、Co-opができるゲーム自体は枚挙にいとまがないけれど、往々にしてそれはCo-opできる、でとどまっています。

つまり協力はできるが協力しなくてもできるという温度感。ある意味そうなるのは当然で、プレイヤーごとに個別の役割を定めてしまうとプログラム外の「生きている人間」をゲームに組み込むことになり、攻略難易度が協力相手のプレイヤースキルに大きく依存してしまうから。こうなるとゲーム体験が製作陣のコントロールを大きく外れることになり、クオリティが担保できなくなる。
結果大半のゲームは各プレイヤーにある程度同じ役割を持たせ、最悪1人でもクリアできるとようにすることでバランスを保つ、という安全策をとることになるのです。

しかし『It Takes Two』はちょっと特殊です。
なぜなら、必ず「誰か」と一緒にプレイする必要があるのだから。


例えばネイルガンとハンマー。
あるいは磁石のS極とN極。
プレイヤーたちは同じ道をたどりながらも異なる役割を与えられ、各々にしか対処できない障害を協力して乗り越えながらステージクリアを目指します。

面白いのはその各々にしか対処できない障害があるということ。

前述したように協力相手に依存するようなゲームは難しい。だから多くのゲームは1人でもクリアできるような安全策をとる。
ではその安全策を度外視して役割分担を強行した本ゲームは「生きている人間」を組み込むことに対して画期的なソリューションを持ちこんだのか……というと、たぶんそんなことはなかった。

しかし、じゃあ低めの難易度でなあなあにしてるかと言われると決してそうでもなく。むしろネット越しの協力を意識して作られたゲームでありながら、シビアに時間を合わせることが求められる遊びが設置されていたり、ランダムに動くエネミーに対して同じ対応をとることが求められたりと、若干難易度は高い。

でも振り返ってみれば、すべては一貫したコンセプトに基づいて行われていた、コントロールされたゲーム性だったのだと思います。
ではそのコンセプトとは何か?
それは「生きている人間」こそを重視すること。

このゲームは常に協力によって発生するコミュニケーションの喜びに焦点を当てているのです。


「先にジャンプするからそっちで合わせてよ」
「せーの、で行くから。いい?せーのっ……」
「右右右!あっ違、左左!!!」


プレイ中、そんなことを口走っていた記憶。
文字に起こすとなんだか小学生みたいになってしまって気恥ずかしいですが、友達となんのてらいや気兼ねもなく純粋に楽しむと案外こんな風になってしまうのかもしれません。

ただ同じ景色を見て、同じ目的に向かって手を取り合う。
仕事のような義務感もなく、競争のような切迫もなく、雑談よりも協調的なコミュニケーション。
このゲームをプレイしているとそれが自然と発生します。しかも常に。なぜなら、そうデザインされているから。違う役割が与えられることも、息を合わせることが重要なギミックも、相手が同タイミングで死ぬまではゲームオーバーではないシステムも、画面が2分割でときどき相手の視点を確認する必要があることも、すべてが協調に指向している。

このゲームの本質は、ゲームの外側にあるのです。


といっても僕がそう思うようになったのはゲームを終えてから……というか今書きながら思い返してやっとそう考えているレベルで。
なぜプレイ中は意識しなかったかっていうと、それは単純に没頭していたから。もちろん相手がいるから自然と集中していたというのもそうなんですが、それ以上に単純にゲームとしてのレベルの高さが強い没入感を生んでいたのです。

ストレスのない操作の手触りやシンプルなUIは高い精度で作りこまれていてゲーム性のノイズになりません。
また「2つの壁の間をジャンプして昇っていく」や「ワイヤーで捕まってスイングする」などといった、アクションの気持ちよさの最小単位といえる要素を丁寧に拾って散りばめていることも、着目すべき点として挙げられるでしょう。

さらに、ステージごとにガラリと切り替わるゲームロジックと世界観については抜群と言っていいクオリティでした。
前述したプレイヤーごとの役割が様々なものに変化するのもそうですが、それに伴ってTPSやハクスラ、レースゲー、格ゲー、音ゲー、あまつさえクレーンゲーム的なゲーム性になってみたり、それらに合わせたパロディをしれっと仕込んでみたり、かと思えば美術・音楽で真っ当に美しい世界観演出をしてみたり。
もはや「やりたい放題」の域に達しているそれは、しかし破綻せず一貫した協調の体験を提供し続けていて、はちゃめちゃなのに筋が通っているというなんだかズルいとすら思えるような出来となっています。


そんなレベルの高さから繰り出されるシナリオは家族の絆という共感性の高いテーマを軸にしたものであり、その普遍性がゲーム性との相性をよくしていたと思います。
2人の主人公が2人のプレイヤーと織りなす話。
ここについては深くは語りませんが、王道も王道でディズニー的ともいえるシナリオが、特有の体験とシナジーを生んで一味違う代物になっていたかと。


協力限定のゲームをあまり見かけないのは、作る難しさもあるのでしょうが、なにより売りづらいという面が大きなネックになっていると思います。だってハードル高いもん。同じゲームを近しい温度感でクリアまで一緒に遊んでくれる人1人探すのって。え、そうでもない?帰ってください。
しかしそれゆえに『It Takes Two』はニッチな市場として機能しています。つまり貴重なゲームである、と。

しかもこのゲームはその貴重性に胡坐をかくことなく、真摯にゲームというメディアとそれが作れるモノに向き合っていて、結果生まれる体験は日々に追われていると割と忘れてしまいがちなものだったりする。

ゲーム自体貴重ではあるのですが、何よりこのゲームを誰かと遊ぶという体験こそが、真に貴いものなのかもしれません。








蜘蛛は嫌過ぎるので庭は焼くべきだと思うけど。

(画像引用元)

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