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こころをこめて(未完成)

味わいを持たない体液なら、いっそ意志を持たない雨の粒の方がどんなに人を気持良くさせることか。

瞳美/蝶々の纏足


筆を運ぶ。
ゆるやかに、想うままに。
筆はただの道具。
だから、想いに応えたりはしない。
けれど、筆を扱う動きはなるたけなめらかに、まるで身体の一部のように。
しなやかに濡れた脂を含む毛先。
少しひび割れた石膏の柄。
筆を支える手、運ぶ腕。
自分の頭の存在を忘れて、こころをそのまま穂先へ伸ばす。
上へ。
下へ。
右へ。
左へ。
奥に。
引いて。
廻って。
うねって。
人らしい連続的な動きを、
機械のように正確に、
洗練された動作で、
反復的に、
再帰的に、
何度も、
何度も。
時の流れを忘れて、
自意識さえも遠ざかり、
やがて無意識が許可したその時、
初めて筆を置く。
漏れたため息は、納得の合図だった。


「いやあ、今回も素晴らしい出来ですな。と言っても、私自身は芸術というものはよく分からないのですが、ただ、まあ、素晴らしいということは分かります。理屈でなく心で感じるものがあると言いますか……」
テーブルの反対側で、一生懸命何かを読み取ろうと目を細める小太りの紳士の首の肉を眺めながら、わたしは自分で淹れた紅茶を飲んだ。せっかく趣味のいいスーツとネクタイなのに、肝心の体形が丸々としていて頭が禿げ上がっているものだから、風貌はまるでハンプティ・ダンプティ。でも、だからこそほとんど唯一の柔和さを放っていて、それがわたしが彼との取引を続ける理由だった。
「ありがとう、マイヤーズさん。でも無理にほめてくださらなくてもいいのよ?」
わたしがほんの少しのいたずら心でそう言うと、彼は大慌てで、顎の下の肉を揺らしながら首を左右に振った。
「いやいや!無理になんてそんな!本当に素晴らしくて……いや、しかし、何度も言うようですが社長はともかく私自身は、その、絵に疎いものですから、それが顔に出てしまっていたようなら何とも申し訳ない……」
大粒の汗を胸元から取り出したハンカチで拭いながら、彼は言い訳じみた言葉を並べたてた。わたしはくすりと笑う。
「ごめんなさい。少し意地悪を言いました。別にあなたの言葉を疑っているわけじゃないの。でも芸術なんて言葉は使わないで?あなたが良いと思ったのだったら、それで十分なんだから」
「ああ……なるほど。これは失礼をしました」
からかわれたことを理解しても、笑って受け取める。どうしたらこんなによくできた人間になれるのだろう。わたしはテーブルの上のクッキーを載せた皿をほんの少しだけ彼の側に寄せた。彼は、これはどうも、と言うと、わたしが譲った絵を丁寧に梱包して折れないように鞄にしまい、ようやく紅茶に口をつけた。
「おお、美味しいですな」
「ありがとう。すぐそこのお茶屋さんで買ったものですけれど」
「ふむ、こちらのクッキーも香りがいい。ひょっとして、茶がらを練りこんであるのでは?」
わたしはにっこりと笑った。
「マイヤーズさん、わたしはあなたとずっと仕事がしたいけれど、コックやパティシエの才能の方がお有りのようだわ」
彼は快活に、しかし上品に笑った。
「ありがたいお言葉です。実はお茶とお菓子には目がないもので……この体形を見れば一目瞭然でしょうがね」
「あら、であればわたしの絵なんかとっととしまってクッキーを召し上がればよかったではありませんか」
「ジョーンズさん、お茶とお菓子には目がないと言いましたが、私はあなたの作品にも目を奪われてしまったのですよ。お世辞でもなんでもなくね。あなたの作品は毎度雰囲気が大きく変わるようで、常に新鮮だ。ですから私はここに来ることを、毎度本当に楽しみにしているのです」
わたしはティーポットから空になった彼のカップに追加の紅茶を注いだ。ティーポットの重みを確かめながらクッキーと紅茶のどちらが先になくなるだろうと考えた。
「ああ、お構いなく……」
「雰囲気が変わる……そうでしたか?自分では意識していないところですから、どんな風に変わったのか、ぜひお聞きしたいのだけれど」
ハンプティ・ダンプティは頭をぽりぽりとかきながら、ふーん、と唸った。
「素人意見ですが……最初のころはとても鮮烈な印象を受けました。ジョーンズさん自身がとても慎ましやかな方のようでしたので驚いたものです。ですが、私がここへお邪魔するたび、だんだんと穏やかにというか……落ち着いていったように思えました。これは私どもの社長も似たことを申していました」
"社長"という言葉は意識的に聞き流した。マイヤーズ氏は好きだが、どうも彼のところの社長は好きになれない。私の絵を——2つの意味で——買ってくれてはいるが、なんというか気取った態度が鼻につくのだ。絵を見る感性があっても、人として良くなければ何にもならない。
「今回の作品もそうですな。今までで一番穏やかに見えます。私にわかるくらいですから意識して、つまり、テーマのようなものを持っているものかと愚考していましたが、そういうわけではないのでしょうか」
「テーマなんて考えたことがありませんわ、マイヤーズさん。他の絵描きがどうなのかは存じませんが、あまりそういうことは考えたくないの。なんだか純粋じゃない気がしていしまうから」
「純粋、ですか」
「絵は純粋です。文字よりも、映像よりも音楽よりもずっと。イメージ、という言葉があるでしょう?一番それに近いのは絵なのです。少なくともわたしにとっては」
「ふむ、イメージ」
マイヤーズ氏は丁寧に整えた口ひげをいじりながら思案していた。わたしの描いた絵を眺めるときと同じように、わたしの言葉をかみ砕こうとしているのだ。
「少し、話は変わりますが」
伺いを立てるような顔で彼は言った。
「近頃機械人形が流行っていますな」
「ええ、なんでも給仕やら力仕事やらができて、絵を描けるものもいるとか」
マイヤーズ氏は、わたしの絵が入っているのと同じ鞄から梱包された板のようなものを取り出した。絵だ。
「こちらをご覧になっていただけますか」
包みを解いて現れたそれは宗教画のようだった。黄金の稲穂が生い茂る中、中央には1人の少女が立っている。少女の周りには数人の大人が倒れていて、死んでいるようにも見えた。そして、その少女を中心に3人の人間の形をしたものが、背から生えた翼を羽ばたきながら中空に浮いている。誤解を恐れずに言うのであれば、それは天使のようであった。
「どう思われますか」
私は正直に答えた。
「素敵」
マイヤーズ氏は何も言わなかった。
「それに、面白いですわ」
「面白い、と言うと」
「機械人形がここまでのものを描けることが、です」
わたしは目を凝らして絵の細部までよく見ながら言った。
「機械人形が描いたものだとわかりますか」
マイヤーズ氏は驚いた顔をした。顔は見ていないが、声で驚いていることが分かった。
「いいえ、これを見たってわからないですよ。それほどに精密で、抽象的です。わかったのは単に会話の流れがあったから」
わたしは微笑みながら言った。
「興味深いですね。絵を描けることもそうですが……この題材は機械人形が決めたのですか?」
「ええ、そう聞いています。絵を描け、と命じたらこれを描き上げたと」
「こうも観念的なものを描くのですね。いえ、むしろ機械だからこそ、なのでしょうか。ともかく遠目に見たらきっと人間のものと区別がつかないでしょう」
「近くで見たらわかりますか」
「ええ、筆の運びのムラが少ないです。そういう意味でとても平坦な印象を受けます。観念的ではあるけれど、観念はない。ディテールへのこだわりを感じないと言えばわかりやすいでしょうか」
わたしはマイヤーズ氏に絵を返した。彼は感銘を受けたような顔をしていた。
「ははあ、なるほど。見る人が見れば違うものですね。私は、見る目がないものですから、素直に良い絵だと感動してしまいました」
「良い絵ではありますよ」
「え。いや、しかし……」
「ディテールへのこだわりがないからって良くないなんてことないですよ。事実、あなたは良いと思ったのでしょう?だったら良いに違いないのです」
彼は難しそうな顔をした。
「むう、しかし、芸術的かという視点では、どうでしょう?」
「マイヤーズさん、先ほども申しましたけれど、そんな言葉は使わないで。"芸術的"かどうかに何の意味があるのです。審美眼なんて言葉は嘘っぱちよ。言葉にとらわれてはだめ。先立つものは感性なの。良い、素晴らしい、感動した、心を打たれた……。感情が先にあって、それらに後から言葉が付くのよ。芸術的だ、って形容もそう」
わたしはティーポットから紅茶のお代わりをもらった。ティーポットは空になった。
「それを踏まえてあえて言い切るなら、わたしはその絵を十分に芸術的だと思いました。好みかと言われるとまた別問題ですけどもね」
「なるほど……なるほどなるほど」
マイヤーズ氏はわたしの言葉を咀嚼するように何度も頷いている。わたしは最後の紅茶を飲みほした。ほんとうはこんなこと、語るのもいやなのだけれど。
「いや……これは失敬を。なるほどたしかに、私は芸術というよくわからないものにこだわっていたようです。こだわっていたというか、言葉だけが肥大化していたのでしょうか。しかし、大事なのは私自身の感性であると」
わたしは微笑みながら無言で頷いた。
「ありがたい言葉です。救われた、というと大げさに聞こえるでしょうが、世界の見え方が変わったような気持ちですな」
「まだ大袈裟ですよ」
マイヤーズ氏は微笑んだ。それは相手に安らぎを与える表情だったが、すぐに少し真面目くさった顔つきになった
「ふむ……。少し踏みいった質問をしてもよろしいでしょうか」
「ええ、なんでしょう」
「ジョーンズさんは審美眼をうそっぱちとおっしゃいました。それに、私が良いと思ったならそれは良いものであると」
「ええ」
「これはある種、感性というものが相対的なものであるという風に解釈できると思ったのですが、間違っていないでしょうか」
突然の哲学じみた話題にやや面食らいながらも、わたしは自分の感覚を普遍的な言葉にされたことに興味深さを感じた。
「まあ、そうなります」
「すると、ジョーンズさんはなにをモチベーションとして絵を描いていらっしゃるのでしょう。もちろん絵を描くことが好きだとか、生活のためであるとかもそうなのでしょうが、私は貴女にとって絵を描くことはどこか求道のようなものなのではと考えていたのです。しかし、どうも少し違うのではと思ったもので……」
わたしはテーブルの木目を見つめながら、考えた。なぜ絵を描いているのか?思ったことはあっても、考えたことはないテーマだった。
「求道……より良い表現があるはずだ、と探し続けることはあるいはそう言えるのかも知れませんが……」
わたしの目は、テーブルの奥、床に敷かれたカーペットのそのまた奥にピントを合わせた。
赤い記憶が、脳内に閃いた。
思考が揺らぐ。口から出る言葉は、頭から生まれたものではないような気がした。
「残したいから……でしょうか。ここに確かに在ったのだと……」
「残す、ですか。それは何を———」
壁にかけてある時計が鳴る。空中を漂っていた意識が頭の中に戻ってきた。短針は4を指していた。
「おや、失礼。もうこんな時間ですか。社長に怒られてしまう」
マイヤーズ氏は手早く荷物を取りまとめると、立ち上がって帽子掛けから自分の帽子を取り上げた。
「長居してしまって申し訳ない。ごちそうさまでした」
「いえいえ、また描きあがったら連絡いたします」
「ええ、どうも、お邪魔しました」
「マイヤーズさん」
わたしはドアを開けて出ていこうとする紳士の背中に声をかけた。紳士はこちらを振り向いた。
「機械人形の絵が流行っても、あなた方との取引は続けたいですわ。わたし、絵を描くことしかできないから」
マイヤーズ氏はにっこりと笑って答えた。
「ジョーンズさん、それはむしろ私どもから頼みたいことなのですよ」
彼は、では、というと洗練された動きで軽く帽子を持ち上げ、出て行った。


マイヤーズ氏が帰ったのでティーポットとお皿の片づけを始めたちょうどそのとき、閉まったばかりのドアが再び開いた。玄関には長身で、まぶしいほど明るい金髪の男が立っていた。
「やあ、ケイト」
「……何か用?ジョシュア」
ジョシュアは苦笑した。まるで異性を虜にするために設計されているような笑顔だった。それが彼にとっての自然体であることを、幼馴染であるわたしは知っている。
「ご挨拶だね。用がないと来ちゃいけないかい」
「そんなことはないわ。あなたがわたしの絵に関して何も言わないのなら、客人として歓迎するつもりくらいはあるのよ」
「新聞、とってないだろ」
なんのことかわからなかった。彼は流れるように家の中へ入ってきて、持っていた新聞をわたしに手渡した。
「一面の右下。小さなコラムだけれど、載ってるよ」
見出しにはこうあった。
『情熱。新進気鋭の画家、ケイト・ジョーンズ』
「……なにこれ」
「もちろん、君のことだ。都会の方では随分と評価されているみたいだよ。『機械には生めない質感、脳に灼き付くようなイマジネーションがある』だとさ」
記事の内容に一通り目を通すと、わたしは深くため息をつき、新聞を手近なゴミ箱に放った。ジョシュアは、くくっとのどを鳴らすように笑った。
「嫌かな。こういう持ち上げ方をされるのは」
「勘違いしないで。評価を受けることは素直に喜べるわ。けれど、気に入らないのは文面よ」
「"情熱"?"新進気鋭"?」
「"機械には生めない"、よ。勝手に人の作ったものをプロパガンダの道具にして、どういう神経しているのかしら」
わたしは気分を落ち着けるため、ハーブティーを淹れようと鍋にお湯を沸かし、片づけたばかりのティーポットを再び棚から取り出した。
「お茶を淹れるの?それは僕もいただいていいのかな」
「結局何しに来たの?今のところわたしを不愉快にしただけよ、あなた」
彼は軽く頭を下げた。
「それについては、すまない。本当にそんなつもりはなかった。新聞は単に話題作りのために持ってきただけだ。……風のうわさで絵が完成したと聞いてね。しばらくアトリエに篭っていて会えなかったろ?少し話したいな、と思っただけさ」
わたしは彼の目をじっと見た。ジョシュアが嘘をついているかどうかはすぐに分かる。彼は嘘をつくとき、必要以上に相手と目を合わせようとするのだ。わたしは、彼が本当のことを言っていると判断し、鍋にもう一人分の水を注ぎ足した。
「クッキーはないわ。さっき食べちゃったから」
彼はテーブルについて、言った。
「君がいれば十分さ」

ジョシュアは、わたしが知らない間に彼の事業を拡大していたらしかった。彼自身は服飾のデザイナーだったが、同時に小さな会社の経営者でもあった。彼はそこで数人の人間を雇い、服のデザインから縫製までほとんどを行っているらしかった。さすがに全て自社で賄うのは難しいが、最近とある企業と伝手ができて工場を利用したりある程度の資金援助を受けられるようになった、とか。
服に関してはわたしは明るくない。けれどジョシュアの語り口はずっと昔からそうであるように人を退屈させないもので、わたし自身かなり会話を楽しんだ。自分のことを語って他人を喜ばせる彼の才気には素直に尊敬できるものがあった。
ハーブティーを飲み終わるころには、わたしはすっかりリラックスしていた。
「また、少し痩せたね」
ジョシュアはわたしの顔をまじまじと見て言った。わたしには鏡を見る習慣があまりないので自覚はなかったが、ここ最近の自分の生活を思えば当然のことだと思った。
「髪も傷んでない?ここからでも枝毛が見つかりそうだ」
「気にする余裕がなかったの。忙しくて」
「ジョーンズ先生の新作か」
「やめて。名前が知られるのは好きじゃないの」
ジョシュアは目をぐるりと回してみせた。
「僕と逆だね。僕はブランドにしてしまうつもりだから」
「ジョシュア・エバンスを?」
「エバンスだけの方がいいかな」
「もうありそう」
「ジョシュアでもいい」
彼の言葉は自信たっぷりでもなく、とても自然だった。きっと順調に事が進めば、本当にそうなるのだろう。わたしが着る服のタグにJoshuaの文字が刻まれる日も来るだろうか。
「名前を押し出したくないのは、なぜ?」
「余分なイメージをつけたくない。名前から性別や出身、年齢が類推できてしまうのが嫌なの。なんだったらタイトルだってつけたくないわ」
「なるほど。しかし作者名はともかく、タイトルはそれ含めて作品なのでは?」ジョシュアは頬杖を突きながら言った。「君の絵は抽象的だから、言葉でイメージを誘導する必要が出てくる。これはこんな作品です、ってね。それがなければ何のことかさっぱりの観客ばかりだと思うよ。観客の思考を誘導するものとしての言葉は要るのではないかな」
わたしは首を横に振った。
「自分のイメージを見る側に強制したいとは思わない。そんなの受け取り手の自由じゃない。技巧の1つとしては理解するけれど、それは絵の技巧じゃなくてプレゼンの技巧よ。わたしは画家でビジネスマンじゃないの」
「画家がプレゼンをしたっていいじゃないか。むしろ君がこれからも絵で生計を立てるつもりなら必要な能力だ。いつまでもあのハンプティ・ダンプティみたいな男がここに来てくれるとは限らない。だろ?」
わたしは苦笑した。それはジョシュアの意見に半ば同意する意味の苦笑いであり、彼もマイヤーズ氏のことをハンプティ・ダンプティだと思っていたことの可笑しさからくる笑いだった。
「そうね。機械人形にとって代わられる日も近いかもね」
「それだよ」
ジョシュアは、真剣な顔をしていた。わたしは顔をしかめた。少し嫌な予感がした。
「……それって?」
「機械に任せてしまえばいいんだ、ケイト。絵も服のデザインも」
わたしは沈黙した。
「機械ができるようになってしまったんだ。もうこれからの時代何も人間がやることじゃないんだよ。必要とされるなら機械が作るさ。もちろん機械だけじゃどうにもならないから人間が間に入る。でも人間がやることは機械同士を繋ぐことだけでいいんだ。一番コストがかかるとことは、疲労を知らない存在に任せてしまおう」
「ねえジョシュア。何が言いたいの」
「君、今回の絵を描き上げるのにどれだけかかった?」
「2か月よ」
「その間君自身の生活はどうなっていたかな。食事やシャワーのことだよ」
「どうだっていいでしょ、そんなこと……」
わたしはかすかないらつきと、強めの失望を覚えた。
「いいやよくない。少し痩せたといったけど、君はこれ以上痩せていいような体形じゃないよ。それに顔色も良くないね。今日はあの画商が来るから珍しくしっかり化粧しているみたいだけど僕の目はごまかせない」
"僕の目はごまかせない"なんてセリフが素面の人間の口から聞けるとは。わたしは1秒毎に、ジョシュアの言葉をまっすぐ受け取る気持ちを失っていった。
「君が、絵から離れる気がないのはとっくに分かってる。けれどせめて別のやり方を模索してくれ。今のままのやり方は、寿命を縮めているとしか思えない」
わたしは微笑んだ。まるで何千回も繰り返した動作を再生するように、中身のない笑顔を見せた。
「その通りよ、ジョシュア。わたしは文字通り命を削って絵を描いているの」
ジョシュアが立ち上がって身を乗り出した。態度こそ理性的に抑えてはいるが、目には怒りと哀しみの色が浮いていた。他人に対して、こんな表情を向ける人間は少ない。きっと向けられる価値のある人間はもっと少ない。
「冗談じゃないよ。僕はこのまま弱っていく君を見てられない」
「見なければいいのよ」
「無理だね。初めて会った4歳のころから君と一緒にこの町で育ってきたんだ。ほとんど家族と同じつもりでいるんだよ」
「わたしもそう思ってると?」
「多かれ少なかれ」
ジョシュアの目には揺るぎがなかった。どこからそんな自信が湧いてくるんだか。わたしは深く、これ見よがしのため息をついた。
「わたしの心配をすることなんてとっくに諦めてくれたと思っていたのに」
「一時期は諦めようかとも考えたさ。特に君がアレを持ち出したときにはね」
ジョシュアの視線の先を追うまでもなく、わたしはそこに何があるのか知っていた。食器棚の横、そこには包丁入れがある。前にも彼がわたしが絵を描くのを止めようとしたことがあった。その時のわたしは今よりもひどい状態だった。力づくで話し合いのテーブルに立たせようとする彼を、わたしは刃物で牽制したのだった。今はあのときよりは肉付きはいいはずだが……追い込んだ後はどうしても人間らしい生活がおろそかになる。
「いいかい、ケイト。君には絵の才能があるだろう。それは僕にだってわかるし、事実評価もされている。でも今までのやり方では君自身が長くはもたない、確実に」
「何の問題があるのかしら」
「問題だろう!」
ついにジョシュアは大きな声を上げた。わたしは窓の外を見ていた。
「大きな声を出さないで。だいたい心配し過ぎよ。病気ってわけでもないのに……。それにね、わたしにはもう絵しかないの。わたしの残りの人生は絵しか残されていないのよ」
「いったいそんなこと、誰が決めたんだ」
「わたしよ、ジョシュア。わたし以外のだれが決められるの」
「違うね。君にだってそんなことはできない」
わたしは少し驚いてジョシュアの顔を見た。彼の顔には先ほどと打って変わって、ある種の冷徹さが浮かんでいた。
「なんですって?」
「君自身の残りの人生を規定することなんて君にだってできないよ。いや、あるいは君にまともな判断力があるならそれでいいさ。でもそうじゃない」
「わたしが狂っていると?」
「その言葉を使うかどうかは君に任せるが、ともかく君は自分で選択肢を狭めすぎなんだ。君には才能がある。それを振るいたいというなら、わかる。でも君のそれは才能を言い訳にした自傷だ」
怒るべきことを言われているのだろう。けれど、わたしのこころはゆっくりと冷えていった。
「自傷だろうと、わたしの居場所はここだってわたしが決めたの」
「決めただって?君の創作は逃げだ。現実逃避でしかないんだよ」
「あなた、わたしに嫌われに来たの?それなら喜ぶといいわ。成功しつつあるから」
ジョシュアは背もたれに深く持たれた。目を薄く開け、わたしの内側を覗き見る様は酷薄なようにも見えた。
「あるいは、それでもいいさ。君が健康に長生きしてくれるならね」
瞬間、わたしの内側に小さな火種が生まれた。それはすばやく延焼し、わたしの中の温度を上げた。先ほどまでとは真反対の心の動き。わたしは怒っていた。
「健康に長生きですって?よくもわたしにそんなこと言えたわね」
「親父が死んだよ」
脈絡のなさに、一瞬何を言われたのかわからなかった。こころのうちに燃え広がった炎はそのまま、時間だけが停止したようだった。
「いま、なんて」
「親父が死んだんだ、ケイト。君がアトリエに篭っている間にね。病気でもなんでもない。ただの過労と栄養失調で死んだ。今の時代にだよ?」
わたしは、彼が抱えている陰に初めて気がついた。ショックを引き摺っているようには見えなかったが、その事象は彼をほんの少し、永遠に変えてしまったようだった。
わたしは返す言葉を持たなかった。今日、ジョシュアがここへ来てからわたしに言った言葉が頭の中で反響し始める。それぞれの意味はそのままに、ニュアンスだけが違って聞こえた。
「親父の仕事、というか趣味は知っているだろ」
「……時計職人ね。それも柱時計だったはず」
「親父はね、別に有名な職人ってわけじゃなかった。数人のお得意様がいるだけだった。彼らとの取引でなんとか食いつないでいたんだ。僕が生まれてからずっと」
ジョシュアが今語っていることは、当然わたしも知っている。幼馴染である彼の父親には、子供の頃ずいぶん良くしてもらった。だからこれは確認の作業であり、悼みだった。わたしがなにを覚えていて、なにを忘れてしまったのかを確認し、追悼の儀をしているのだ。
「僕の養育費だってカツカツだった。僕が働きながら学校に通っていたのはそれが理由だ」
ジョシュアは天を仰ぎながら追想する。わたしは彼の顔を見ながら昔を思い返していた。先ほどまで感じていなかったシンパシーを自覚しながら。
「なあ、君ならわかるのか?親父はなぜそんなことをしたんだい?別に不器用な人ってわけでもなかった。近くには工場の募集があったし、知り合いから割の良い清掃業を紹介されることもあった。なのになぜ彼は時計に……創作にこだわったんだ?彼が時計を好きだったから?時計を作る才能があったから?母親は僕が6歳の時に病気で逝ったが、彼女が生きていたとしても親父は時計にこだわったか?」
時計を作ることがどんな行為なのか、わたしは知らない。けれどもし、それに表現としての側面があるのなら。彼の父親、ノアの気持ちが少しわかるかもしれない。ノアの柔和な笑顔を思い出す。それはとっくの昔から失われていた。最後に見たのはわたしが7歳の時だっただろうか。
「こんなことを言うのはずるいかもしれないけどさ」
ジョシュアはわたしの目を、昏い視線で射抜いた。
「僕、君しかいないんだ」
嘘だ、と思った。でも根拠はなかった。わたしは彼の、幼馴染の陰を見抜けなかった。もう彼のことを分かっている気になるわけにはいかない。そもそも疑う権利自体あるのだろうか。彼の言う通り、わたしは絵を描くことに逃避しているかもしれないのに。
「言いたいことはわかったわ」
窓から差し込む色が、濃い紅い色に変わっている。わたしの家の壁に掛けられた時計は17時半を指していた。
「ノアさんのことも残念だった。でもね、ジョシュア。わたしはノアさんじゃないし……あなたでもないのよ」
ジョシュアは何も言わなかった。
しばらくの沈黙があった。秒針が刻まれる音がいやに大きく聞こえた。このまま何時間もこうしていそうだったけれど、ジョシュアが椅子を引く音で静寂は破られた。
「これくらいにしとくよ。今日のところはね」
彼は立ち上がり、そのままドアを開けた。そこでほんの少しだけこちらを振り返って言った。
「前に進む、なんて表現をする気はない。けどいつもでもそこにいるべきではないよ、ケイト。……それじゃあ」
ドアが閉まった。わたしは座ったまま、無言で見送った。テーブルに残されたジョシュアのカップは、口をつけていないハーブティーで満たされていた。


書きかけですが、ここまで。

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