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ホラー映画はお好き?

ホラー映画を好んでよく観る。特に最近気づくのは奇習チリツモ系(そんな言葉ある?)が結局1番怖い感じがすることだ。何度も繰り返された実際の過去が現在の現象の原因であるという設定。

そもそも非現実的であるということ自体はありとあらゆる物語に共通している。そもそも架空であるし、仮にノンフィクションだったとしてもプロダクトにすれば事実ではなく物語になる。物語ならば不思議さや不気味さを放っておいていまっては、作品として結末を迎えられ難いであろう。

ときに、よく耳にする ”Truth is stranger than fiction.” (事実は小説よりも奇なり) という詩人バイロンの言葉がある。これだけを一旦盲信するとしたら、ここで言う"Strange"「奇」は、単なる現実を指す。順序立てて構造を認識すると読み取れるのは想像したか想像していないかの差のことを言っているのだろうと推察される。されるが、そんなこと当たり前じゃないか!誰も思いもしなかった現実それはまさに奇そのものなのに対して、フィクションは少なくとも作者が空想したことだ。この言葉は非常に曖昧に真実っぽく振る舞って現れるが、言ってることは「未来予知はできない」みたいな結構かっこ悪いことなのでは…と個人的に思っていたりする。

そして話はホラーへと舞い戻る。先程の話ではフィクションでも現実に起こったことでも「起こりうること」である。実際に奇天烈なことを空想することが物語の根幹というものであろう。誰もが経験しうる突拍子もないこと(天気予報が外れるとか)は、物語とは言い難い。

さて、ようやく奇習チリツモの話だ。奇習とは、得てして非常にローカルで本来その奇習が行われる村落などの外から観測されることは想定されていない。もし本来の意味を差し置いて単なる習わしとして根付いてしまっては、おおよそ理知とは無縁となってゆくであろう。とは言え、自分とは全く異なる人種であったとしても根幹に「人間」としては理解できる明確な理由があるハズだ。例えば口減らしはわかり易くそれに該当する。理由があり、理由につらなる明確な行動原理をもって或る行動をする。口減らしで言えば「皆で食物を分けていては全員死ぬ」という理由。そしてその解決方法として、意図的に村落内、あるいは家庭内の人を殺したり自死したりして全体の消費量を減らす。現代の我々からすれば到底容認できないこの事実も実際にはるか昔から行われていて、様々なアイデアで正当化された。つまり先の口減らしの例に擬えれば習わしは実在しなくても積み重なった「時間」と、明確な「経緯(理由)」があればかなりのリアリティを持つということだ。はるか昔からある一部の村落で行われていた謎の習わしも、そうなる。「なにも分からない状態」から徐々に原因が明示されていく。1度のイレギュラーではなく、何度も何度も世代を超えて継続され続けたという背景が明示され始め、受け手へゆっくりとリアリティを形成して与えてくる。そしてもしこれを読んでいる貴方の…例えば隣人が、恋人が、そんな村落から来た人物だったら…?この変換がホラーの味だ。スパイシー。

これが奇習チリツモ系ホラーの恐ろしさ正体というわけだ。存在しない村落の存在しない風習だとしても理路整然と設定をすればするほど現実世界にどんどん近づいて真実味を持ち、或いはまるで真実のようになっていくから怖いよね、というコト。

私は察しが悪かったりすることも多いので、こうしてゆっくり教えてもらっていい感じに分かるからホラーが好きなのかも知れないな。ガッハッハ!

ところで日本の古めの映画ってビデオテープとかパソコンとかガラケーとか、電子機器それぞれの黎明期にそれを題材にホラーを作ってるの多いけどあれは何なんだ?日本だけだよね。

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