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「多様性の象徴」の座を掴み取った渡辺謙 「王様と私」 2019年8月3日

「ラストサムライ」でハリウッド進出しただけでなく、この「王様と私」でブロードウェイを進出を果たした、渡辺謙を生で体感。

絶えざる前進による偉業、まさに求道の行いの成果だ。

英語力を主体にこれを評価する旨が多いが、それは勿論だ。しかし見逃せないのは、「時期を見てそれを我が物とする」、彼の臭覚である。

求道学では、時代は常に変わり続け、足場は必ず崩れる、故に自分の選択肢を最大化して、常に自己変革を促して、選択を楽しむことが推奨される。今回の渡辺謙のブロードウェイ進出はまさにそれを象徴している。

では、渡辺謙にはどんな時期が来ていたのか?

今回の「王様と私」のパンフレットでは、多様性への言及が多い。特に劇中で突然出てくる「アンクルトムの小屋」についての解説が興味深い。

今回の演出では、シャムに迫る帝国主義・重商主義による列強のアジア侵略に加えて、「アンクルトムの小屋」のパートがくっきりと19世紀当時の公民権運動、アメリカにおけるルーズベルト大統領の南北戦争への言及と関連付けられ、「差別・文化侵略・多様性の危機」が強調されている。

独自文化を持つはずのアジア・アフリカを三流国として勝手に規定し、その近代化のためには自国の支配下に置いてよいとする列強の強硬な態度に悩む王の姿が際立つ。2幕初めには西洋人の東洋文化蔑視を皮肉る「おかしな西洋の人たち」という楽曲を復活させており、このことから、今作が、単なるリバイバル上演を超えて、現代的な意味を持つ21世紀の作品として批評性を獲得する野心作であることがうかがえる。そして最近のトランプ大統領に始まる世界のナショナリズム台頭に対する批判精神を強く感じさせる。そして、気づく。まさに我々の世代は、「王様と私」の底辺に潜んでいた帝国主義への痛烈な批判を呼び起こすべき世代あることを。

我々の世代は、テクノロジーによって世界が一つになった後の世界に生きる。アメリカだけでなく各国で始まった、移民を規制し、国家の壁を高くして、多様性を排除しようとする国家の流れに対して、個人が自主的に独自の文化を尊重し、「多様化を守るべき時代」に直面している。

ハリウッドではそれらを主張する作品観が、「ラストサムライ」の頃から始まっていたと考えられる。(監督の前作はネイティブ・アメリカンを扱った「ラストオブ・モヒカン」である)

この「ラストサムライ」は、まさに今回の「王様と私」と同時代の日本を舞台にした作品だった。維新後の明治政府の課題は、当時のシャムの王様と同じ、列強の帝国主義から自国の独立をいかにして守るかだった。そして自国の独自文化と、最先端の技術や先進的な思想文化の注入をいかに成立させるかであった。同じ構図が21世紀の現在の我々の世代の課題となっているのだ。

文明衝突の時代、資本主義のバージョンアップを突き付けられる国家、情報の均一化によって流動する人々、テクノロジーによって変化する地政学的な危機、流入する移民によって多様性を求められる文化など、「王様と私」当時の状況と社会的な課題が共通している。この時代のクリエイターたちはその課題を無視することができない。そして、その課題を映画や舞台で表現するとき、それを象徴する「アクター」が望まれていたのだ。

渡辺謙は、その時流をつかんだ。単に日本人であるということではなく、西洋に対する「異文化」を象徴し、それを乗り越えて「協働する仲間」を実現し、まさに「多様性のすばらしさ」を象徴できる存在が、ハリウッドでも、ブロードウェイでも求められていたのだ。

今作の渡辺謙を見ていると、日本人として誇らしいだけではない「なにか」を感じさせる。

アジア文化の代表としても誇らしいし、西洋文化と対等に自分を発揮するオリジナリティに感服するし、そのコメディセンスにも余裕を感じさせる、そして多国籍なカンパニーをまとめるリーダーシップに感動を覚える。彼こそが、「我々の時代の王様」なのだ。

それは、彼が自分に与えられたチャンスを最大化し、それを自らの意志で選択して、努力の末に勝ち取った証である。

そして渡辺謙は時流を勝ち取って、いまや、世界の「多様性を代表する役者」になったのだ。




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