自粛をどう考えようか

 COVID19のパンデミックに対し,日本は個人の権利を規制する法制度をもたないため,外出の自粛やお店の営業自粛などが呼びかけられている。ちょっと前まで同じことを「マナー」とか心がけようというアナウンスで扱ってきたのとは,ずいぶん違うレベルで扱われるようになってきた。これに対する違和感を持つ人も多いんじゃないかと思う。

 司法と福祉に関わらせて考えてみると,少しその理由が読み解けるように思う。何かの罪や非行で刑事処分(少年の場合は保護処分)をうけて罰せられ,その後社会復帰するときの支援を更生保護という。たとえば保護観察とか,刑務所からの釈放といえばわかりやすいだろうか。でも多くの人は,保護観察の言い渡しや釈放時に訓示される「善行を保持して,健全な社会人になってください」ということばを聞いたことはないと思う。これの意味は,罪を償ったのだからここから先は自分の力で更生しなさいというわけだが,これは決してほったらかしの放任という意味ではない。責任は当事者にあるけれど,行動如何では刑務所に戻らなければならないので,自分で自らを律してもらいつつ,必要な助言や手助けを保護観察官や保護司から受けられるのだ。自らを律するという点でいわば罪を償った人たちのマナーに委ねられ,それを見守るという関係にあたると思う。でも実際は,マナーに委ねられる一方で,当事者たちは周囲の目を始終気にしながら社会復帰する状態に置かれている。周囲にあたる多くの人たちは,かれらがまた罪を犯すのではないかという目でみている。すると,当事者たちのマナーとは,周囲の目を気にしてとられる行動ということになる。

 さて,パンデミック下で期待される行動は自粛である。要するに,不要不急の外出を避けて感染リスクをそれぞれが減らし,万一宿主になっても他の人に遷さないでください,という意図なのだが,ウィルスに感染するリスクから避難する行動を選択する主体が私たちそれぞれ個人の責任なのだという。詳細はいろんな方がいろんな場で主張されるものに委ねるけれど,代表的な主張の一つに「(緊急時なのだから)公共の福祉が優先されるべきだ」というものがあり,ここに,自粛がマナーを守ろうというメッセージを超えた強制力を帯びる根拠があるだろう。周りがみているから行動を律しようというのは,前の例に限らず日常でもありうることだ。だが自粛は,マスメディアを通して日々繰り返されることで,私たちの意識も「公共の福祉」という立場に塗り替えていくおそれをもっている。むろん誤りではないのだが,私は,先の例だと,たとえば被害者やその関係者が見守るような姿勢になれないし,迷惑を被った立場の人は許せないだろうことを許容する幅が必要だと思っているので,同じような方向性に私たちの意識が向いていくことは,決して健全ではないといいたい。そして,ここからはみ出す人を自己責任の名の下で排除してしまっていないかと,少し冷静に考えたい。

 たぶん,ポストコロナを論じるには私の考えは浅くて,十分な意見表明ができるわけではない。でも公共の福祉を最優先でおこなって感染予防に成功している国は,軍事的緊張や共産党政権といった統制的な政治体制であって,民主主義が犠牲にされている場合もあるのだと思う。たぶん,日本が民主主義を育てるには,ここで付和雷同するようなみんな一緒の意識でなく,異なった方向性の議論も尊重するような環境は大事にしなければならないと私は思う。罪を犯して償って,立ち直るのは自分の努力だが,社会はチャンスを作れるものでなければならないだろう。ここに自己責任を狭隘にふりかざす姿勢だけは,ぜひとらないでほしい。ポストコロナの日本は,言い逃れしたり責任もとらない政治で国会を空転させるような民主主義ではなく,私たちがちゃんと話し合い,熟議が成り立つような社会であってほしいと思う。

 そうやって,わが家も今夜の献立を決めていく。熟議で成り立つ日常生活のありがたみは,それを経験することで身につけられると思うから。

 みなさんの「自粛」は自己責任

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