もしも意に反しても

 去年の京都アニメーション放火殺人事件の容疑者が,ようやく取り調べの出来る状態に回復したとして逮捕された。この事件で亡くなった方や傷ついた多くの方を思うと,逮捕されたからといって取り戻せないことが多い。また社会的関心の高い事件だっただけに,容疑者の治療にあたった医療従事者はどんな思いだったろうか。私の関心はここにある。

 仮にふだん自分へ嫌な目に合わせる人が,本当に困っている場面に出くわしたとする。あなたは助けるだろうか?私は,自分の思いがぐぐっと沸き上がり助ける事をためらってしまうと思う。人間的にはそこで助けるべきだろうという状況であってもその気持ちが沸き上がらないとはいえない。

 このような時,「こうあるべし」という倫理的な態度を求められるのが,人に関わる仕事である,といえる。人相手なので好き嫌いや,自分の価値観とあわないようなことだって「客」の要望として実現しなければならないことだってある。だが倫理的な態度で振る舞おうとするのは,職業上のプロとしてその相手に向き合うからだ。

 もう少し直接的な例。極悪人で,数多くの人を苦しめた者を治療するときを思い浮かべればいい。おそらくその場で殺せばこれ以上多くの人が苦しめられないで済むと思う気持ちがよぎったりするだろう。しかし,治療を優先する。そこで思う事は,自分の職業に対する誇りや倫理的な価値なのである。だから,京都アニメーションの事件の容疑者にだって,治療スタッフは一人の傷ついた患者としてとらえて関わってこられたに違いない。これは社会に対する使命感といえるかもしれない。

 大きな事件は例に挙げると考えやすい。けれどもっと身近なことだったらどうだろうか。マスクをしていないとか,やたら密集して以前と同じように遊んでいる若者たちをみて,かくあるべしという思いで説教しますかみなさん?ここには,COVID19といかに共存していくか試行錯誤するいまを生きる私たち共通の課題があると思うし,いわゆる「コロナ差別」だの「自粛警察」だのといった問題を考えていく糸口があるんじゃないかと,私は思う。行為自体を非難しても感染予防になるだろうか,自由な生活をどう規制しながら感染を防ぎ合うかは互いの自由をどう考えつつ,いかに「ストレス」というマジックワードでごまかさずに,大人らしく生きるのか。

 先ほどの例で私なら助けない,と答えました。しかしながら助けなかったことをくよくよと何度も考えるだろうと思う。何故なら,かくあるべしという自分なりの理想がある。職業じゃなく人間として大人として,どうありたいかである。大人として,という時,言外に世間で切れているいい年の方々を非難するニュアンスを感じ取ってほしいと思うし,いい年の一人でもある私だって,まだ向上心は持ち続けたいし前向きでありたいと思うのだ。みなさんはどう思うだろう。


 

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