左利き、さそり座

かなり大きな恋をしていた。

愛とは呼べないけれど確実に恋をしていた。
相手のことを知りたくて堪らなかった。
ああ、これを人は「恋に狂っている」と表現するのだろうと。

16になる年、生まれて初めてまともに他人と交際した。私はどちらかといえばその人から好意を向けられた側だった。恋をしていたとはいえなかった。
人として好意はあるから受け入れようとした。

ただ相手が私から離れていった。

他人に傷つけられることを覚えた一年後、
自分の人生史上最大の恋をした。

他人のことを考えて胸が苦しくて、枕を濡らす夜がこの世に実在していることを知った。

優しくされると自分は特別なんだと、私だけだと、世界中に自慢したくなる感情があることを知った。

好きな人に文章を書くことがこれほどに胸躍り、緊張するのだということを知った。

絶対に叶わない恋だったけれど、貰った言葉や文章を今も大事にとっている。こんな自分でも恋ができることを教えてくれた。

当時、相手は7つも年上で世間知らずの自分には十分大人に見えた。
私は好意を隠さなかった。

「あなたに恋をしています」と顔に書いて会いにゆき、話し、言葉を欲しがった。
私を一人の大人として対等に見て欲しかった。

恋や愛の形が恋人になることだけではないと今なら思う。
その人が私に恋をしていたなんて自惚れたことは思っていない。
ただ、少なくとも私のことを考えてしてくれたことはたくさんある。
今なら分かる。私は欲しがりだった。

卒業する直前、手紙と電話番号をくれた。
人並みだが涙が出るほど嬉しかった。
卒業したら連絡してください。
その言葉だけで生きていけると思った。

ただ、人の心はそれほど強くなく、浮気で、
いい加減なものだ。私は大学に入るとその人のことを一切思い出さなかった。

好きな人ができたり、好意を寄せられたり、交際者ができた。
好きな人とデートをしたし、好きでもない人ともデートをした。 

確固たる美しく一貫した恋をした私は多少の汚さにも慣れた。人間の欲と共存する恋だの愛だのにも慣れた。


未練などはない。私は彼から愛さえ与えられていない。それでもその人を想い読んだ本、聞いた音楽、過ごした時間を思い出して感傷に耽る権利はあってもいいんじゃないだろうか。

私が恋をしているのはその時の記憶の中のその人で、今は知らない。
遠くもなく近くもない土地で生きていると思う。
おそらく当時の私が想っていたほど優しく、誠実で魅力的な人ではないと思う。

これから先誰かに同じくらい恋をするかもしれない。それは分からない。

それでも確かに少女は恋をしている。

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