飛鳥時代に聖徳太子に取り入れられた仏教。日本当時の大和朝廷は、大陸の大国隋に遅れをとっていました。 そのため、隋の先端文化を取り入れ、対等な地位を築くために、仏教も取り入れることになるのです。 時が流れて、奈良時代、都は平城京となり、天武天皇から命ぜられた古事記と日本書紀の編纂は完了した時代です。 日本の成り立ちは、多くの豪族が割拠する日本が、神武天皇率いる大和王権となる軍が、大きな戦をすることなく、交渉をすることで、一つの大和王権として、国と成っていくのです。 というこ
お久しぶりの中学 歴史。 ちょっと遡って聖徳太子と十七条憲法。 604年に役人の心構えと理想の国家像を記した日本初の法。 先進国に追いつこうと律令国家、中央集権国家を目指しました。 その一文。 一に曰く、和を持って貴しとなし。 いさかいを起こさないように心がけること。人は集団を作りたがり、人格を備えたものは少ない。だから、君主や親に従わず、人と揉め事を起こすものである。 しかし、上の者も下の者も協調と親睦の気概をもって議論すれば、おのずと道理にかなった結論が出て、何事も成
今日も中学 歴史から。 608年第3次遣隋使で、外交的に考え出された称号、天皇。 隋にもその後中国統一した唐とも、朝貢すれども冊封を受けずの地位を確保しました。 そんな政策を掲げた聖徳太子が薨去され、その後は蘇我氏が権力を握ることになります。 蘇我氏の腐敗した政治を打破したのが、中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿暗殺、乙巳の変です。翌日、蘇我蝦夷も自害に追い込まれ、蘇我氏は失脚したのです。 これを受けて、第35代皇極天皇は史上初めて譲位して、第36代孝謙天皇が即位され
二女 まだまだ頑張るって。 頑張る姿を応援するのが オヤジは嬉しい。 さあ、どんなサッカーをするのか。楽しみだ。 私のサッカーノート/#15 矢野 粧子(東海第二代表 静岡産業大学)|女子大生のサッカーノート #note https://note.com/juwfa/n/nbad5c5f06a20
隋は589年中国大陸統一したそうです。 今日も中学 歴史から。 我が国は第33代推古天皇の時代。初の女性天皇の時代ですね。 獲加多支鹵大王こと、雄略天皇が中国王朝の冊封制度から脱却して、100年以上経ちましたが、中国王朝は、宋が滅び、隋が成りました。 せっかく大和朝廷独自の国を作ろうと、雄略天皇の戦略。 しかし、他国の進歩に遅れてはならないと、600年から隋へ使節団を派遣しました。これが遣隋使です。 この後、天皇という敬称が生まれることになりますが、この時は 新
今日も中学 歴史勉強しました。実は昨日もう一冊買ってしまったので、これからは二つ、youtube 竹田学校、中田敦彦のyoutube 大学からまとめていこう。 今までの古墳時代は3世紀前半から6世紀後半まで400年強、 今からの飛鳥時代は6世紀後半から7世紀末までの100年間の話。 この時代は統一王朝に成長し大和朝廷となっていました。 中国王朝の冊封制度から飛び出して、自ら中央集権を実現して、法制度を備えた国家を目指す、つまり律令国家を自ら目指す時代になりました。
今日は中学 歴史より、youtube竹田学校から学んだこと。 第10代崇神天皇は、天照大神としてお祭りしていた八咫鏡を宮中から外に出したことがあります。これは1800年前、三世紀初めの頃の話。 この頃のヤマト王権は疫病に苦しめられたようです。時の天皇、第11代垂仁天皇は倭比売命ヤマトヒメノミコトに命じ、ここよりも天照大神を祭りするには、もっとふさわしい場所でなければならないので、倭比売命が八咫鏡を持ち、祭るにふさわしい場所探して、行き着いた場所が五十鈴川の畔、伊勢の神宮の内
今日も相変わらず、中学 歴史から。 ワカタケル大王は、雄略天皇のこと、中国からは倭王武と呼ばれていました。 そんな雄略天皇と中国との関係と、日本国内の勢力拡大についてです。 日本は紀元前1世紀(紀元前0-99年)の頃、100以上の小国があって、その内の一国が中国王朝に朝貢して、国王の称号を授かるように外交していたことが、前漢の漢書地理史に記されていた。 後漢の後漢書東夷伝で紀元57年に倭奴国王、金印で有名な王の名が記されました。 日本の小国の一つ奴国の王が朝貢に来たこと
今日も変わらず中学 歴史。 5世紀(400年代)、前方後円墳が最も巨大化した時代、まだまだ古墳時代。最大の古墳が仁徳天皇陵、大阪府堺市にある。覚えてるのは、立ち入り禁止なこと、外から眺めても前方後円墳かどうかは見えない、それぐらいでかいから。 そんな仁徳天皇は第16代。 ある時仁徳天皇は、人家から煙が立ち上がっていないことを心配されて、民は困窮しているのだろう、地方ではさらに困窮しているに違いないと嘆き、3年間の課税と労役を停止して、民の苦しみを和らげよと命じたそうです
今日も中学 歴史。 ちょっと遡って3世紀。 魏志倭人伝に出てくる邪馬台国と卑弥呼。 女王卑弥呼は、中国である魏に使者を出した。そして親魏倭王の称号を得た。 有名な金印、漢倭奴国王印。倭の国にある小国の奴国の王、卑弥呼。 魏志倭人伝には記されているけど、卑弥呼の没年は247年だそうで、卑弥呼の邪馬台国とヤマト王権は同じ時期に存在していて、邪馬台国はヤマト王権が統一していく途中で統合された一地方の小国だったのか、邪馬台国がヤマト王権なのか、謎が多いですね。 古墳時代の
いつも通り、中学 歴史から 紀年法。 歴史はいろいろな方法で時代を表示していますね。 年を数えたり記録したりする方法を紀年法というらしいのです。 また、初めて知る言葉。 例えば、元号。 これは日本独自の紀年法。今は令和だけど、最初の元号は大化なんだって。645年だし、大化の改新の時だね。 元号は、今は天皇一代につき元号一つと決められているそうです。でも、その前は、良いことが起きた時、悪いことが起きても元号を変えたので、縁起を担いでたのかなあ。 あとは、西暦、世
邇邇芸命ニニギノミコトは、日向の高千穂に降り立った後、山の神の娘と結婚。その子の名を火遠理命ホオリノミコト、火遠理命は海の神の娘と結婚して鵜葺草葺不合命ウガヤブスキアエズノミコトが生まれました。 神武天皇からすると、父が鵜葺草葺命、祖父が火遠理命、曽祖父が邇邇芸命かあ、神様の子孫じゃん、そして、邇邇芸命から鵜葺草葺不合命までを日向三代というのです。 邇邇芸命は山の神である山幸彦から娘を娶りましたが、姉妹二人を娶りました。妹を側において、姉は還してしまいました。妹の名は木花
大国主神オオクニヌシノから葦原中国アシハラノナカツクニを譲り受けた天照大神アマテラスオオミカミは、天忍穂耳命アメノオシホミミノミコトに葦原中国に降って治めるように命じた。 天忍穂耳命は、自分が降る準備をしている間に子が生まれ、その子を降すべきだと進言した。 そのため、天忍穂耳命の子である邇邇芸命ニニギノミコトが天降り、治めることとなりました。 天照大御神は天降る邇邇芸命に八尺勾瓊と八咫鏡、草薙剣の三種の神器を賜い、鏡を自分の御魂として我が身を拝むように祭るように命じたのでした
前回の国生みで登場した神代七代の末っ子、伊耶那岐神と伊耶那美神。 これで日本の国土が誕生しました。その後の物語。 伊耶那岐神は、最後に身を清めます。左目を洗うと天照大御神、右目を洗うと月読命、鼻を洗うと須佐之男命が現れました。いずれも尊い神なので三貴子と呼ばれます。 天照大御神は、父の伊耶那岐神から、高天原(神様の世界)を治めるように命ぜられました。 一方、葦原中国(地上世界)は須佐之男命の子孫である大国主神が立派な国を作り、治めてましたが、天照大御神と話し合うこととなりまし
今日も中学 歴史から これは古事記の国生みの物語です。 自分は古事記もよく知らない、もう一度古事記を読み込む根気強さもないので、中学 歴史に書いてあったことのまとめを記します。 この世の初めに高天の原(神々の世界)になった神は、天之御中主神、そこから、高御産巣日神など五柱の神を別天津神という。 その後、國之常立神から伊耶那岐神と伊耶那美神までの7代の神を神代七代という。 この神代七代の神々から、末っ子の伊耶那岐神と伊耶那美神が下海の海を治めるように命ぜられ、淤能碁呂
年を取って改めて知らないことが多いと感じた。 自分は、親父は高千穂、お袋は富士宮出身の二人から生まれた。 今思えば、どちらも日本を象徴する土地柄、高千穂は天孫降臨の神話の町、 富士宮は見上げれば日本一の富士山。 でも、自分はあまり日本のことを知らない。 だから、中学 歴史 主筆:竹田恒泰、明治天皇の玄孫を読むことにした。 今日は一つ 建国記念日は二月十一日。 なんで、二月十一日? 日本最初の天皇、神武天皇が奈良県、橿原宮で即位した日だから。 大事だよね〜