2022/05/05:

昨日の疲れで一日中家にいて参照するべき主要な文献がひとつも手もとにないが、ドゥルーズ=ガタリにおける「魂」の位置をあらためて思う。以前に確認した『千のプラトー』の記述をみると、戦争機械、そしてそれがもたらす創造性を重視する観点から考える際には、魂は「精神」より下位に位置していると考えても良さそうだ。しかし、該当の箇所は魂という観念を「批判」する論脈にあったわけではなかった。加えて、「重心そのもの」であるところの魂は、精神と性質を異にするだけで、両者が併存しないというわけではない。つまり「魂」という観念の存在自体に対して全面的に否定的な見解を示していたわけではないのだ。

ところで、たしか『千のプラトー』のどこかに「此性による個体化」という文言があった気がする。前個体的状態から個体化を経て個体が発生する。アリストテレスは形相(エイドス)がその原理だと述べた(例えば人間なら人間という種を貫く大いなる「魂」が質料の構造を規定する)。それに対するドゥンス・スコトゥスの反駁は、この個体化原理では「此性」を説明できないというものだった。手もとのスコトゥス入門書によれば、アリストテレスはそもそも科学(=純粋な理論、形而上学、あるいは「王道科学」と言っても良いのか)が個別性を説明する必要はないと考えていたらしい(だとすればこの見方は潔くて良いと思う)。おそらく、両者はそもそもの関心が異なっていたと捉えるほうがよいのだろう。

で、これも『千のプラトー』だが、「反自然の融即」っていうのもあった。言ってみればアリストテレス的な個体化原理は「自然の融即」、つまり普遍的原理としての「自然」にもとづく同一化の理論だ。個体化は異質なもの同士が一つの個のなかに共立することだから、一種の同一化と捉えることもできなくはない(あるいはむしろ、同一化のほうが「個物それぞれに対する解像度が粗い個体化の説明」だといえる)。だから「反自然の融即」と「此性による個体化」は密接にかかわると考えてよい。

此性。これがこれであるということ。昨日バンジーのあとに岸本が「はじめての経験は未知ゆえに「すごい」としか言えないから必ずすごい」みたいなことを言っていた。われわれはしばしば「これ」を既知のものに当てはめて理解するが、はじめての経験=「これ」(例えば100mからの落下の速度)は「あぁ、アレね」には回収できない。にもかかわらず初体験を無理やり既存の枠組みに押しこもうとすることは、重心=魂を変えないことである。全く新しい「これ」を自らに組み込むには、重心=魂の位置をずらす必要がある。此性による個体化は、魂の変化を要請する。

そういえば昨日、どこかで「まともな人間なら(バンジーなんか)跳ぼうとしない」という言葉をきいた気がする。字義通りとるなら、バンジージャンプは「反自然の融即」ということになるだろうか。この線はありうる。ただし昨日書いたように、跳んだあとウィンチで引き上げられている時間はまさに有機的で「まとも」な地獄の時間だった。なのでバンジージャンプが「反自然の融即」であるのはその手前までだろう。

以前、われわれが探している言葉の意味を「重心を確定する際に外的な力(権力)に隷属しない絶対的高貴さとその必然化の機敏」と規定しておいたが、これをここまでの議論と合致させ、好き勝手に加えると以下のように整理できる。

既知の規定によって理解することができない「これ」との出会いは、重心=魂に変化を要請する(この変化を促す媒介が気体的な「精神」であろう)。この変化のダイナミズムに区切りをつけてもう一度準安定的状態に至る(=忘れる)ためには、最後には新たに重心=魂を確定しなくてはならない。つまり魂それ自体はつねにすでに弁証法に属し、そこから無縁になることはない。しかしながら、忘却されたものは弁証法の裏拍、誰も――主体さえも――「知らない」どこかに刻まれる。絶対的脱領土化を経たものは、その後再領土化されてもそのとき絶対的だったことには変わりない。換言すれば、たとえ忘れ(られ)たとしても、魂がそのとき触発され変様したことに変わりはなく、このような変様の来歴は「知覚しえぬもの」として刻まれるのだ。かつてわれわれはこの「魂の変様の来歴」、およびそこから予見できる、この魂はこの先の出来事にこう反応するはずだという習慣的確からしさをまとめて「魂」とよんでいた。しかし来歴が習慣を形成するのではなく、来歴が習慣そのものなのである。テンポは存在せず複数のリズムがあるだけなのだ。そこで、いっそ来歴のほうは大幅に切って、来たるべき変様を待ち構える魂の姿勢、此性によって別のリズムに跳びうつることを厭わぬスタイルを「機敏」と表して良いのではないか。

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