2022/04/11:

夕方からあおきくんと観た《天気の子》に強い衝撃を受けてしまったので何も書けない。かろうじて言語化できるのは、徹底的な現在主義だと思った。容態が安定してきたらあとで感想を書くかもしれない。

追記:
《天気の子》の現在主義は徹底している。一般的なロマンス物語を想起してみると、ふつう「未来」がある。エピローグで二人が結婚していたり、そこまでダイレクトでなくてもなにか誓いあったりするなどして、その先の「幸せ」な未来を暗示する。この「幸せ」は結局のところ生殖未来主義的な価値基準における幸せであって、異性愛規範的な方向へ行き着くようになっている。それに対して本作品はそういう「未来」へ向けられた希望みたいなものを一切提示しない。「僕たちから何も足さず、何も引かないでください」。この作品において、〈愛〉は自己満足している。過不足は無いのだ。主人公とヒロインは互いに異性であるが、そんなことは瑣末な、二次的なことでしかない。たまたまそうだっただけだ。生殖の未来よりも、対象への愛よりも、なによりも先に〈愛〉があり、帆高と陽菜の場合では、それがたまたま異性愛のかたちをとって受肉しただけのことなのである。考えてみてほしい。主人公はひとりの力で警察から逃走し、またヒロインを彼岸から連れ戻したわけではなく、いろいろな人のそれぞれの愛が一挙に力となって奇跡を成し遂げたのだった。愛の個別的様態はそれぞれにおいて厳密に異なり、一様ではない。〈愛〉は、その受肉のプロセスにおいて、それぞれの環境に則して変形させられる(帆高の陽菜への愛、須賀の妻子への愛、凪のきょうだい愛、etc…)。しかし、多様な愛のかたちをそれでも貫きつづける〈愛〉という抽象機械が先立つから、個別具体的な愛たちのそれへの逆行が起こり、この横断的同盟が成り立ったのである。
このように《天気の子》では〈愛〉が何よりも先立っていて、それは「未来」を望まず、現在における自存だけを望む。現在における〈愛〉の自存のためなら、三年間雨が降り続けても、その結果東京が沈没しても、そもそも「未来」を望まないのだから、なんの問題もない。だから、他の様々なものが〈愛〉に味方しなくなりつつあるこの時代にも、「〈愛〉にできることはまだあるかい?」という問いには、YESと答えることができるのだ。それは「存在に固執し続けること」である。

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