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2023年3月後半から4月にかけての事

なんと忘れがたい日々だったのだろう、と思う。
3月後半から4月にかけて、本当にそう思う。
でも人は忘れる、どんなにしんどくともどんなに大事に思っても。
なので備忘録として残しておきたいと思い書き記す。
できれば感情的なところは押さえ気味に、箇条書きで書いていくつもりだ。

…と思っていたがなかなかそうもいかないようで、結局書き終えてみると感情的な部分も色々と書いてしまってるようです。
文章力無いのでただただだらだらと長い文章です、あくまでも一人の男が過ごした2ヶ月弱ほどの記録として。

3/17

2023年3月17日夕方18時半ころ、実家にいる妹より電話がかかってくる。
母が倒れて病院に運ばれて、意識が無いとのことだ。
医者の見解ではクモ膜下出血ではないかとの事。
すぐに実家(和歌山にある)に帰ろうかと申し出たが今から手続きなどがありややこしいので次の日朝一で帰ることにした。


3/18

3月18日、朝6時前の電車に乗り実家へ。
実家の最寄り駅には9時過ぎに到着。
父親が車で迎えに来てくれており妹も一緒にいる。
3人でそのまま父の車で母のいる病院に。
父も妹もほとんど寝れなかったようだ。
かく言う自分もほとんど寝れず、とりあえず腹は一杯にしとこうと夜中ではあるけどもガッツリ系のご飯を作って食べていた

病院に着いて母の病室に。
母は眠っているようだった。
口から太い管を咥えこんでいる以外は。
救急車が家についたときにはすでに意識がなく呼吸が浅く、病院に着いたときには心肺停止状態だったとのこと。
それでも処置のおかげで心肺は動き命はとりとめたものの、意識はまだ戻らず。
話しかければ声は聞こえてると思うからどんどん声をかけてあげてください、と看護師さん。
こんな急に言われても何を言うてええのかわからない。
だって最後に話したことも覚えていない(正月に会ったのが最後、そのあとたまに電話はしたもののたわいもなさすぎる内容)。
御礼の言葉を言うのはなんかもうお別れみたいで嫌だった、が生んでくれてありがとう、というのと頑張れよ的なことは伝えた、と思う。

父は気丈に振る舞っていたと思う、というかあまりに急の出来事でまだ気持ちの整理がついていないのかもしれなかった。
救急車を呼んだのは父だ。
自室にいたところ、台所で「ごと」となにかが倒れたような音がしたので見に行くと母が仰向けで倒れていた。
炊飯器を仕掛けようと米を研いでいたのであろう、釜と米が床に散乱していたらしい。
近づくと呼吸が浅く、すぐに救急車を呼んだ。
その後は上記に記したとおり。
そんな感じなので直前まで普通に話していたはずだ。
そんなさっきまで普通の母が今は声すら発せない状態になっていることなんて理解はできないだろう。
妹はずっと泣いていた、それも無理もないと思う。
俺はこのときから「しっかりしよう」と思うようにした。
この中で一番頼りないであろうけども、それでもしっかりしよう、と。
なにをどうしたらいいかはわからんけども。

病院を出てちょうど昼時だったので帰り道にご馳走するからなにか温かいものを食べようと提案。
昨日ガッツリと食べた俺と違い父も妹もさすがにあまり食べてないとのことで、「とりあえず温かいものをこういうときは食べるべきやねん」という根拠のないことを言って適当に調べて評判の良さそうなラーメン屋があったのでそこに
美味しい店だった、普通にまた行きたいと思った。
父は飯が喉を通らない、とは言うてたが食べてくれていた。

その後実家に帰り少し話す。
家は母がいるかのように本当にそのまま、なにもかもがそのままだった。
ただただ、母だけがそこに居なかった。
母が倒れたことをとりあえず皆に伝えないと、ということで親戚関係に伝えなきゃね、という話をしていくなかで、母の友人にも伝えたほうがいいのでは?と俺や妹が提案した。
父は「そんなのは後でいい」と言うのだが、自分が友人を亡くしたときに最後に会いに行けてよかった、という経験をしているので知らせるべきやと話をすると、「そんな連絡したらもう母ちゃんがあかんみたいやないか」と父。
その時にようやく父の不安や寂しさやらを垣間見た気がした。

夕方にもう一度母の見舞いに家族3人で行き、その後俺は電車に乗って大阪の方に戻った。
もともと行く約束にしてて、前日に「こういう状況なので行けない、ごめん」と言うてたイベントに顔を出すことにした。
実際実家にいても俺ができることはなく、それであれば一度自分の予定もあるので尼崎に帰ろうと。
というか、あまりにもそのまますぎた実家にいるのがしんどかったのだ。
そこに父と妹を置いていくのに抵抗が無かったわけではない、でもいったん逃げたかった。
本当に逃げたかった。

夜には約束してたイベントに遅れて到着。
知り合いもたくさんおり気も紛れた。
本当にホッとした。
しんどさから逃げれた。
けどその反動で一人になるのが怖かった。
でも終電では家に帰り風呂に入り布団に潜り込んだ。
結構疲れてるはずだが目は冴えて眠りがなかなか迎えに来てくれなかった。
とりあえず無理やり目を瞑る。
なんとか眠れたのだろう、気づいたら少し明るかった。


3/19~21

3月19日から21日までは自分の店を閉めて新今宮と尼崎でイベントの音響さん的な仕事を3日間。
もともと決まってた予定で、イベント制作には同じ人が3日間関わってるので母のことはあらかじめ伝えていた。
(その次の週などにもイベントが多く予定されていたので、その会場の方や主催の方にはあらかじめ伝えさせて頂いていた)
心配してくれたが、むしろ動いているほうが気が紛れるねんなんてことを言うた。
実際にそのとおりで頭や体を一生懸命動かしているときは気が紛れる、というか母のことを忘れることができた。
それでも不意に頭をよぎる。
ポンッとなんてことないタイミングで。
その時に涙が溢れそうになるのを必死に堪える。
そりゃ急に音響担当さんがなんでもないところで泣き出したら変ですやん。
でもそんなことが一日に何度もあって…
その時一緒に働いてたスタッフにはおそらくバレてると思う。
でもそっとしておいてくれたのは本当にありがたかった。

20日の現場の前に北浜にある少彦名神社に行って病気快癒の御札をもらってくる。
生まれて初めて絵馬というものを描いた。

20日の夕方ころ、本番転換中に父から電話。
病院の先生と話をし、クモ膜下出血であることは確実であり、このまま意識が戻る可能性は厳しい、とのこと。
脳波はなく、心臓だけが動いていてそれで体が保たれている状態。
嫌な予感がしてはいたが的中してしまい、電話を切って動揺していたところを一緒に働いてたスタッフに見つかってしまい、必死に堪えながらなんとなく取り繕う。
音響現場明けの22日は普通に自分の店を開ける予定だったが、23日がちょうど定休日ということもあり、この2日間は実家に帰ることを決めた。


3/22

22日、この日は昼過ぎに実家着。
この日は妹は仕事で家には居なく、父と二人で夕方頃に見舞いに行く。
母の様子はほぼ変わらず、心拍や血圧は先日と変わらず。
ある意味低空飛行で安定している状態。
違うことといえば父が時折涙を流して嗚咽するようになったこと。
先日の電話の流れからして事実を受け入れようとしているのだろうが気持ちがついていってないように見えた。
父は愛おしそうに母の頬や頭をなでたりしていた、それが辛かった。
20日に少彦名神社でもらってきた御札を枕元に置いてきた。

病院の帰り道、スーパーで食材を買う。
晩飯は自炊になるので父と一緒になにか作ろう、と相談しながらの買い物。
結果晩飯は父がしいたけの炒め物とサバの塩焼き、俺がホタルイカの酢味噌和えときゅうりもみを作り、仕事から帰ってきた妹と一緒に食べる。
父と二人でなんやかんや言いながら作ったご飯は悪くなかった。
実家は基本的に風呂も就寝も早いので俺も22時ころには布団の中へ。


3/23

23日。
この日は朝からお見舞い。
基本的に父は朝と夕方の二回お見舞いに行ってるとのこと。
妹も仕事帰りに寄ってくるので毎日見舞いには行っていた。
父と二人で病院に行く、母の様子は昨日とほぼ変わらず。
血圧が低いところから普通の人くらいまで上がってて、これはどういうことかと訪ねたが回復の兆しでも悪い予兆でもなく、そういうことはままあるとのこと。
父は昨日と変わらず時折涙を流しながら母に触れていた。

昼前に家に帰り昼飯の準備。
昨日の残り物のきゅうりもみ、ホタルイカと実家で作ってる絹さやでナムルを作り、味噌汁も作った。
父が随分と疲れて見えたので昼飯は俺が作った。
この後、俺が実家に帰ったときはキッチンに立つのは俺の役割へと移っていった。
それでいいと思った、自分の役割ができ、父や妹にちょっとだけ、本当にちょっとだけでもホッとさせられるのではないかと。

昼過ぎに病院から24日の朝に改めて詳しい病状の報告などがあるので来てほしいと連絡が。
さすがに店を閉めすぎていたので24日は尼崎に帰ることにして、病院には父と妹で行ってもらうことに。
その後昼間は家で互いの用事を少しして、夕方にもう一度母の元へ。
朝とは特に容態に変わりなく、相変わらず眠ったように呼吸だけをしている。
父は朝よりもさらに涙もろくなっているように感じた。
正直なところ、この頃になると病院に行くのが若干しんどくなっていた。
変化のない母の姿、だんだんと弱気になっていく父の姿。
その両方がしんどくなってきていた。
それでも「しっかりしよう」と思い立ったことだけは忘れないでおこう、と気づいたことがあれば看護師さんに聞いてみたりとかできることをしようと務めた。
その後家に帰って夕ご飯は俺が作り、仕事から帰ってきた妹と3人で食べる。
夕飯後には尼崎に向けて帰宅。
が、ずっと家と病院の往復しかしてなかった故、なにか知らない人のやかましさに触れたくて天王寺で降りて立ち飲み屋に。
ちょうどよくガヤガヤしてて、値段も安く3杯ほど呑んでようやく帰宅。
この立ち飲み屋には気持ち的にかなり救われた、また行こうと思う。


3/24

24日、仕事中の昼過ぎに妹より病院で聞いた話の結果がLINEで来る。

  • 病名はくも膜下出血、全人口の5%がなる病気で、母はその中でも最も重篤な症状でそれはくも膜下出血になった人の3分の1にあたる。

  • くも膜下出血になる原因というのはこれといってなく、基本的に遺伝の可能性が高い。

  • 本人の生活習慣などが起因ではない。

  • 代謝が悪くなってきており、体が腫れてきて点滴も腕に打ちづらくなくなってきて傷だらけになるので脇腹への皮下注射に切り替える。

  • 父の発見が遅れていたらここまで保たなかった可能性あり。

  • この先どれくらい保つかはわからない、月単位でいえるような状態ではない。

とのことで、父より「この先の予定はあまり入れるな」と言われる。
実際にはこの少し先から外せない予定がびっしり入ってきており、その状況とともに基本的には実家優先であることは妹から伝えてもらった。

仕事終わり、大阪でとあるバンドのワンマンライブがあったので観に行く。
知り合いも多く来ており終始和やかに過ごす。
終演後バーカウンターで話ししていると妹より電話。
母の容態が急変したと連絡があったので病院に行くとそのまま心肺が停止したとの内容。
電話の途中で病室に先生が来られたので一度電話を切る。
電話を切った後俺は挨拶だけしてライブハウスを出て尼崎の家に向かう。
その途中で妹にLINEをして状況を聞くと、先生が死亡確認をしてくれたとのこと。
そしてそこから実家は葬儀屋への連絡など準備に入るとのこと。
俺はとりあえず家に帰り、次の日のために喪服などの準備を。
準備中にもう一度妹よりLINEが。
葬儀などの挨拶を俺にしてほしいと父より頼まれる。
喪主は父だが、そうしたことは辛かったのだろう、「しっかりしよう」と思っていた役割がここに来て生まれる。
二つ返事でやるよと伝える。
早めに寝ようと思ったが目が冴えて眠れない。
ライブハウスで呑んだ酒はもはや完全に覚めていた。


3/25

朝6時前の電車に乗り実家へ。
9時過ぎに実家最寄り駅に付き、車で迎えに来てくれていた父と実家に。

母は仏間の仏壇の前で寝ていた。
見覚えのあるパジャマを来て布団の中で横になっていた。
入院中ずっと咥えていた太いパイプはもちろんもう無く、ようやく楽になれたんやな、なんてことを思った。
ただその母の手も、頬も、冷たかった。
確かに母なのに、母では無くなっていた。
思ったよりうろたえていない自分がいた。
「しっかりしよう」と思って気丈にしようとするがあまり、感情に「蓋」をして何も感じなくなってきてしまってるんじゃないかとさえ思った。

お通夜は3月26日日曜日、葬儀は27日月曜日。
父方の祖父や母方の祖母がお世話になったメモリアルホールがあるのだが、そちらの規模の小さい方はすでに予約が入っており、もう一つの規模が大きい方で葬儀を行うことになったらしい。
家族葬にしようか、という話もあったそうだが、父が一般葬にすると決めた。
その地方でしか販売されてない地域に特化した新聞というものがあるのだが、ウチの田舎にもそうしたものがあり葬儀社にその新聞に告別式の告知を入れてもらったことで、友達なども来るであろうという判断からだ。
その葬儀の打ち合わせなどもあり葬儀社の方が来られたり、新聞を見た近所の人が何人か来ていただけたり、といった感じで一日が終わった。
この日のことはなぜか記憶が薄い。
ただずっとハンカチを握りしめている父の顔は覚えている。
この日の昼飯・晩飯は両方俺が作ったものを食べた。
明日は午前中に納棺師の方が来られ、昼過ぎに母が葬儀会場に移動となるので早々に寝た。


3/26

早めに起きる、というか目が覚める。
今日はバタバタするだろうということでパッと食べれるものということで卵かけご飯を食べる。

納棺師の方は10時頃に来られたと思う。
祖父や祖母をしてくれたのと同じ方が来てくれた、というかこの周辺地域を一手に担われてるのかもしれない。
その頃には母方の叔父や叔母たちも来てくれており、みんなで母が着物に着替えて、化粧されていくさまを見ていた。
生前の母はほとんど化粧をしなかった。
苦手とかでなく本当にしなかった。
納棺師の方もそのへんを汲んでくれたのか、不自然にならないようにナチュラルメイクとでもいうのだろうかそんな感じにしてくれた。
この納棺師の方が本当にホッとさせてくれるというか、我々にも母にも、そして父にも優しく話しかけてくれながら着付けや化粧をしてくれる。
たまにちょっとした裏話なども交え少し明るい気分にもさせてくれたりする。
すごい仕事だと思う、「死」に向き合うという仕事。
それはきっと「人」に向き合う仕事なんだと思う。

納棺師の方の着付けや化粧が終わった後、棺が届きみんなで母をその中に運び入れる。
父が頭の方を、俺が一番重く力がいるであろう胴の方を持った。
その後お菓子や写真、母が好きだった宮本浩次さんのCDの紙製のカバー、六文銭などを棺に入れ、手を組ます。
その手に俺がハンドメイドで作ったレザーのリングもはめてもらった。
納棺師さんは仕事を終え、帰る際に父にそっと何か耳打ちした。
父はそれを聞いて泣き崩れていた。
その後昼過ぎには母の寝る棺は葬儀場へと運ばれていく。

夕方よりお通夜。
自分の友だちも数人来てくれたり、俺の小学校の同級生のお母さんが来てくれたりと昨日新聞見てきてくれた方も多く、正直自分が思っていた以上に見送りに来てくれていた。
みな一様に驚いていた。
つい先日まで元気だったのに、と。
そう言われて改めて母が倒れてから旅立つまでたった1週間だったんだなと思い起こした。
妹から母が倒れたという電話をもらってから10日後には葬儀だなんて。
そんなことになるとは想像もしたことなかった。
お通夜の中で親族からの挨拶、ということで俺が挨拶をする。
原稿は父が葬儀屋さんからいただいた例文をいじって凄くシンプルなものを作ってくれた。
前日から感じてた感情の蓋をこの挨拶をしていたときも感じていた。
悲しいけれどもその悲しさをどこか遠くで俯瞰してるような気分。
父も妹も泣いていたが俺は泣かなかった、もしくは泣かずにすんだ、もしくは泣けなかった。

お通夜後親族で弁当を食べる。
父は火の番で泊まり、妹と俺は家に帰った。
26日は本当は知り合いのイベントにDJとして出る予定だったのでそのことも気にかけたりしつつ、早々に眠る。


3/27

朝、母が残した写真を入れたアルバムを見ながらそのなかから良さそうな写真をスマホで撮影。
それをセブンイレブンのネットプリントで印刷して母の棺に入れようと思い準備をした。
小さい頃の俺と妹と母との3人での写真、若かりし頃の父と母の二人での写真、など。
そのまま棺に入れようと思っていたが葬儀会館の方が「せっかくなのでみんなに見てもらおう!」ということでボードを用意してくれそこに貼ってくれた。
葬儀に来られた方々も若い頃の母を見て微笑んでくれたり懐かしんでくれたりしていたようだ、が、よくよく思えばこれ母は恥ずかしかっただろうな、なんて。

葬儀にも本当にたくさんの人が来てくれた。
大きいホールでの葬儀で椅子をたくさん用意してくれた。
そんなに使うこともなかったら葬儀場の人に申し訳ないな等と思っていたのだが、むしろ用意しておいていただいて良かった、と思えるくらいたくさんの方に見送っていただけた。
父も母も基本そんなに社交的な方ではない、が母は面倒見がいいと言うか人に優しくできる人だったのか「色々気にかけてくれた」「色々野菜などわけていただいてた」「花見をしようなんて約束してた」なんて言葉を色々かけていただけた。
父はそういうところを見抜いていたのか、だからこそ一般葬を選んだのだろうな、などとも思った。

葬儀でも遺族側の挨拶は俺がした。
昨日のお通夜のときと同じ原稿を読む予定だったのだが、少し自分で加えて母への、そして父への感謝をほんの少しずつ付け足した。
最後の別れ、棺には沢山の花を沢山の人が入れてくれた。
朝用意した写真も入れてもらい、家から持ってきたお菓子やいつも使ってたハンカチやバッグにつけてた人形なども一緒に。
そうした皆さんの気持ちをたくさん込めていただいた母の棺を霊柩車に乗せた時、ようやく蓋が少し外れた。
少し泣いた、記憶がある。

火葬場で本当に最後の別れ。
最後棺に火を付ける赤いボタンは俺が押した。
最後母にできたことが荼毘に付すためのスイッチを押してあげることになるとは。
その後骨が冷めるまで親族で食事、その頃には父はすでに憔悴とも言えるような感じになり始めていたが、それでも喪主として振る舞おうとしていたと思う。
食事の味は…正直あまり覚えていない。
ただ「温かいものが食べたいな」と思ったくらい。
そしてお骨上げ。
肝臓を少し患ってはいたが基本的に元気だった母の骨はきれいに残っていた。
それを一つずつ拾い骨壷に入れていく。
サクサクと、カラカラとした母。
それを大事に入れていく。
「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」という漫画があるのだが、流石にそんな気分にはなれなかった、がたしかに持ち帰りたい気持ちにはなった。
もちろんそんなことはしてないが。

母の遺骨と位牌を持って母が入ることになる墓のあるお寺へ。
お寺の中で改めてお経を上げていただき、その後墓の中に母のお骨を納める。
お墓の前の部分が少し動くようになっていて、その中に空洞がある。
そこに骨壷の中の遺骨を「ころん」と入れる。
本当にあっけない。
祖父のときも思ったが、この瞬間が本当にあっけない。
一週間ほどの色んな思いがこの「ころん」に集約されて墓の下に納まる。
あまりにもあっけなくて突然現実味を帯びなくなるくらい。
だからこそ思い知る、母は死んだということを。

その後実家に戻りその日最後のお勤めを和尚さんにしてもらい、葬儀のすべてが終わる。
仏壇の前の母の写真を見て、未だに感じる違和感を飲み込もうとした。
疲れ切った父は自分の部屋に籠もり横になっていた。
妹と俺はとりあえず片付けなどをしながら晩飯の相談などをした、と思う。
正直その後のことはあまり覚えていない。
ただ1本だけビールを呑んだ。


3/28

葬儀後実家で眠った。
朝起きたら父から母の乗っていたバイクは処分するから写真を撮るなら今の内だ、と伝えられる。
母は中型免許を持っていた、ただずっと乗っていたのはスーパーカブ110だった。
これが50ccの方だったら俺がもらおうかと思ったのだが、110の方では俺の免許では乗れないので、もったいなと思いつつ父に従った。
ただ、他のものに関しては捨てたりするときは必ず相談してくれ、と父に言われた。
突然、本当に突然居なくなったので、そこに残された母の着ていた服、母が残した写真、母が飲んでいた薬、母が参考にしてた料理の本、母の残したすべてが父にとって母の生きていた証であり、母の息吹であり、母の思い出であり、母そのものなのだ。
俺は「捨てへんよ」とだけ答えた。

昼飯は俺がカレーを作った。
昨日感じた「温かいものを食べたい」を叶えるために。
父も妹も美味しそうに食べてくれた、と思う。
昼飯を食べた後、父と母で耕していた畑をなんとなくブラブラし、咲いていた花を写真に撮った。
久々にてんとう虫の姿をそこで見かけ、懐かしい気持ちになる。

夕方、15時過ぎの電車に乗り、尼崎に帰る。
途中友人に会い、少し呑んだ。


3/29〜4/18

3月後半から4月にかけて予定がかなり詰まっていた。
3/31には自分も大好きなバンドを札幌から招聘していたり、古本市への出店や野外の大きなステージの現場などもあったり、レコード屋の他にやっているもう一つの仕事も始まったりと外せない予定がたくさんあった。
そう考えると、母が旅立ったタイミングは本当に絶妙で。
何度か見舞いに行くこともでき、お通夜も葬儀もしっかりと務めることができ、すこしのんびりとした時間も作れた。
本当に少しずれたら上記に上げた予定とぶつかり誰かに迷惑をかけたり、自分も気が気でないまま葬儀に出たり、なんてことになりかねなかった。
そんなタイミングまで合わせてくれたのかな、なんてことを考えるのはいささか不謹慎ではあるが、それでも優しい母のことだから…なんて。

母がなくなったのが金曜日、なので七日法要は木曜日となるのだが、ちょうど木曜日は自分の店の定休日なので二七日と三七日の法要は参加できた。
葬儀後一週間、二週間と経つにつれ父も元気を取り戻しているように感じれた。
実際母が旅立った後の処理を父に任せっぱなしにしてしまっているのでその処理で忙しいということもあり、やることがたくさんあることが頭を使わせることになってて、それも良かったのかな、などとも思う。
畑仕事にも出るようになってたようだし、少し先の話もできるようになった。
自分の休みをしばらく七日法要のために使っていたので疲れはあったが、行って良かったと思う。
行くことによって俺の気持ちも色々整理できるような気もしてた。
ただ「蓋」がまだ閉まったままのような感覚だけは残っていて、眠りが浅い日が続いていた。


4/19

この日は自分の店の通常営業の日、平日はゆったりした営業の日も多く予定していた仕事を詰めつつ店番をしつつ、といった日。
夕方、東京の友人よりLINE電話が。
最初それに気づけなかったので不在着信として残ってたのでかけ直す。
応答なし。
その友人は仕事で関西に来たら連絡くれたりしてたのでそういうことかなと思ってたのでまた連絡くれるだろう、と思っていたらすぐにまた電話が鳴る。
その時は電話を取れた。
泣き声が聞こえた。
共通の友人で俺がかつて働いていたライブハウスの同僚、今は東京で某事務所にてマネージャーとして働いていたSちゃんが亡くなったとのこと。
現在詳しい情報が無いのでわからないことも多いのだが、ガンだったということ。
という内容だった。
とりあえず共通の友人、世話になった人などには伝えていこうということになりすぐに数人に連絡を取る。
また自分の感情の「蓋」を感じ取った。

その夜にはそのSちゃんと交流が深かったメンバーでLINEグループができた。
誰に伝わったか、誰かと誰かは繋がりがあるから伝えてもらおう、などと久しぶりにLINE上ではあるが会話が飛び交う。
最終的にはSちゃんを偲んで献杯しよう、などということでLINEを動画でつないで呑み会が始まる。
なんだか相変わらずで愛おしい時間だった。
ただそのきっかけになったのは友人の悲しい旅立ちなのだが。
だからこそ、みんな誰かと繋がっておきたくてあの時間があったのだと思う。


4/20

昼頃にLINEグループにSちゃんのお通夜及び葬儀の日程、会場の情報が上がる。
4/20にお通夜、次の日4/21に葬儀。
東京ではなくSちゃんの実家近くでの斎場で行われるとのこと。
その情報をすぐに共通の知り合いに、できるだけ早くできるだけ多く回そう、とそのグループのメンバーで動く。
東京や和歌山からもお通夜に参加したいと集まることになった。
俺はその日自分が企画したライブイベントだったためお通夜には参加できなかった、なので次の日の葬儀に参加させていただくことにした。

Sちゃんの死因はやはりガンだった。
しかもほとんど周りの誰にもそのことは言わず一人で治療を続けていたらしい。
ご両親にも、お世話になっていた職場にも伝えず。
そして本当に末期でいよいよ、という時にご両親の元へ連絡が入り、東京から実家へ帰って、その6日後には旅立ったという。
なぜ誰にも言わなかったんだろう、とも思うんだが、その「言わなかった」というのが実にSちゃんらしいなあとも思えるところではあった。
だからこそ悲しかった。
俺たちが知らないところで独りで戦ってたSちゃんのことを思うと悲しかったが、じゃあ知ったところで何ができたんだろうか。
怖かったんだろうか、もしくは覚悟を決めていたのだろうか。
今となっては想像することしかできない。
それが悲しい。

夜イベント中にLINEグループの通知が活発に鳴る。
お通夜に行った仲間たちが写真やコメントをあげる。
たくさんの友人知人が訪れたことにご両親は驚きつつも本当に喜んでいただいたそうだ。
こちらもイベントは無事に終了、打ち上げも夜遅くまで話が盛り上がった。
ちょうど一人になりたくない気分だった俺には最適な時間だった。
一人になったら、流石にめげそうだった。


4/21

本当は普通に店を開ける予定の日だったが、開店の時間を遅らせてSちゃんの葬儀へ。
お通夜にも行った共通の友人が葬儀にも出たいということで一緒に。
葬儀場はたくさんの花に囲まれ、Sちゃんの人柄が忍ばれた。
最後、棺に花を入れる段階でSちゃんにようやく会えたのだが、本当に戦い抜いた顔をしていた。
かけれる言葉が見つからない、本当にお疲れさまでしたというしかない寝顔をしていた、がかえって安らかでもあったと思う。
Sちゃんは一人娘で、ご両親が気丈に最後まで振る舞うのだがやはり出棺直前になると感情が押さえきれなかったのだろう、その姿を見ていてこちらも押さえきれなくなる。
俺はうなだれるしか無かった、それしかできなかった。
でも最後だけはちゃんと見送ろう、目に焼き付けよう、そう思った。

出棺後、一緒に行った友達と少し休もうということで斎場の近所にあったうどん屋に。
どうも先日から悲しいことがあると温かいものを胃に入れたくなるようになってしまったようだが、これは俺は正しいと思っている。
二人でうどんを食べながらいろいろ話をした。
うどんを食べ終えた後もウチの店に遊びに来てくれてそこでもずっと話をしてた。
Sちゃんの思い出話からそのご両親の話、あの頃取り巻いてたみんなの話、各々自分の話。
本当に20年以上付き合いがある、そんな人達の話。
Sちゃんもそうだった。
本当に急にいなくなった、ように感じるけども実はそうではなく。
彼女はおそらく「死」と向き合ってたのではないか。
向き合い尽くしたんじゃないだろうか。
そしてそれを抱きしめたまま旅立ったのではないだろうか。

その日もぐっすり寝れなかった。


それから

冒頭に書いたように人は忘れる。
だから残そうと思って書き出した。
それは母のこと。
それを書いている途中でまさか友達が旅立つなんて。
でもそれも今となってはその一報から3週間以上経ち、あの頃感じてた感情もだんだん薄れていく。
母の四十九日法要も無事終わり、父とは母が残してくれた貯金の相続の話などをしたりする。
3週間前に活発に動いてたLINEグループでのやり取りも落ち着いた。
それでいいのだと思う。
人間は忘れる生き物、というけど本当にそうなんだと思う。
でもなぜかいい思い出は残っててそれを笑いながら話せたりもする。
不思議なものだと思う。

母は本当に急に倒れて、一週間で旅立った。
病院で聞いた話だとおそらくほぼ苦しまずに眠ったと。
逆にSちゃんはおそらく自分の命と向き合う時間をたくさん過ごして旅立ったのだろう、すごくしんどかったと思う。
ただ、どちらにしても「死」は迎えに来る。
突然かもしれないし、ゆく少し先にじわじわ見えだしておののくのかもしれない。
その覚悟をしながら生きるなんてできたもんじゃない。
ただ、死んだ時にああしとけば良かったって後悔してしまいそうなことを、少しずつでも一つでも減らしながら生きることはできそうな気がしてる。
それでも全部できるなんて言い切れないので、そうできるように意識しながら過ごそうと思ってる。

5/14、自分の店の2周年の日。
新今宮のライブハウスで周年記念のイベントを開催した。
沢山の仲間が集まってくれて祝ってくれた。
みんな本当に楽しそうに笑ってくれた。
「おめでとう」「ありがとう」「楽しい」
って言葉をたくさん俺に送ってくれた。
いやいや、むしろこっちがありがとうやわ、みんな楽しそうにしてくれて!
ってずっと思ってた。
俺もいっぱい笑った、笑わされた。
あ、と気づいたのはこの時感情の「蓋」を感じなかったこと。
この「蓋」は例えば思いっきり「泣く」ことで外れるんじゃなかろうか、と思ってたんだが、実は思いっきり「笑う」ことで外れるものやったのかもしれない。
「パカッ!!」て感じで開いたわけではないような気がしてるのでまた閉じるかもしれないけれども、少なくとも開け方はわかった気がする。
いつまでも閉じられてたら困るけども、少なくともあの時の自分は「閉じておく」必要があったのだと思う。
そしてそうなったからといってこじ開けなければいけないものでは無いこともわかった気がする。
ニヤニヤと、ニコニコと、ゲラゲラと、一つでも笑えることを増やしていこう。

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