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能登震災を支援できる共助

※この記事はFRUITFUL Lifeに書かれた記事です。
1月1日 16時。僕はジムにいた。

有酸素運動中でマシンにまたがっていて揺れには気が付かなかった。
ジム内のテレビで地震速報が流れ、ジムの利用者でざわついていたのを覚えている。
シリアスな雰囲気が一瞬流れたけれど
元旦ということもあって被害の大きさは全然理解できていなかった。

時間を追うごとに悲惨な状況が写真や動画であっという間に明らかになっていく。
被害状況は東日本大震災を彷彿とさせる。
あの時僕は医師になってまだ数年しかたっていなかったが
なにか力になれないかと歯がゆい思いをした。

幸い、総合病院に勤めていたため病院内で即席チームを作り被災地医療支援チームに抜擢された。
総合内科医の診察は医療診断機器が乏しい地域に役立つため、という判断なのかはわからないけれど新幹線で那須まで行ってレンタカーで東北に入った。

震災から約1か月遅れで被災地に入ることになったのだった。
そこで見た景色は今も忘れない。山のふもとから海岸線まで数キロにわたってまるで焼野原のように建物がなくなっていて、山のふもとから見えるはずのない海岸線が目視できる異様さ。
余震も続いていて山がゴゴゴゴゴと地鳴りの数秒後に突き上げるような揺れが何度もあった。

被災地では小学校の運動場に迷彩柄のテントがいくつも立てられて
公民館は避難者でぎゅうぎゅう。寒いし水もふんだんにあるわけじゃないしで手洗いうがいがストレスだった。数日しかボランティアをしていないけれどその数日でも苦しい環境。それを被災者たちは被災した日からずっと苦しい生活を強いられていたのだった。

あのとき、助けたい思いと、無力な自分と、笑顔でありがとうを言ってくださる被災者の方たちと、、。心の整理が難しかったのを覚えている。たくさんの人たちが亡くなった。たくさんの人たちが被災者となった。その被災者は口々に言う、「たくさん亡くなった。亡くなった人たちに比べれば自分たちは幸せだ。家族を多く亡くした被災者よりは。苦しいひとはもっといるんで」。

被災者の一人がこういうなら、そういう人もいるんだなという感想だが
関わった被災者の多くでこのような他の被災者を気遣う言葉がなんとも心に突き刺さった。

ああもっと早く支援できたら。もっと長く支援出来たら。

それは今も変わっていない。
あのときと今とその気持ちは変わっていない。

でも自分には生活もあるし富豪のようなお金持ちでもない。
支援したい気持ちがあるけど一番助けを必要としている今、なかなか支援できない現実がある。

そんな時に目にしたポスト。まず見てほしい。

https://x.com/tamuyorke/status/1747563052562833917?s=20

キングコング西野さんのマネージャーをしていた田村さんのポストが
タイムラインに流れた。なんと断水地域で食事をこどもたちに届けるという。
Amazonのほしいものリストを使って支援を集めているではないか。

すごい。ネット時代の共助だ。
被災すれば自助は無理ゲー、公助は即効性という意味ではなかなか困難な場面も多い。
そんななか支援したい気持ちと実際の支援をつないでくれる人が現れた。
運営は困難の連続だと思う。しかし災害ボランティアのスペシャリストではない田村さんが発信しつつ実際に現場で活躍されている。

これを逃すことはできない。
ポストを見たのは寝室で、寝付きにくい日にたまたま見ていたX。
縁と言わずしてなんという。すぐに欲しいものリストから支援する物品を少ない金額だけれど送ることにした。被災した誰かに温かい食事を提供できればそれは最高。わずかながらでも貢献できれば。そんな想いを田村さんが繋いでくださってる。

支援の輪。どんどん広がってほしい。
そしてどのフェイズでどの支援が必要なのかもできれば可視化してほしい。
呼吸をするように困った人が助かるようなシステムがあると本当に助かる。

そんななか田村さんのような今必要な物資が可視化される声、発信、本当に尊い。
応援せずにはいられないそんな夜だった。

いま、まだ、支援の仕方に戸惑っているひとが多くいるかもしれない。
そんな誰かにこの発信が届いてほしい。
一人でも多くの子供が温かい食事にありつけたなら。

そのときはみんなで最高!と叫ぼう。

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