か・かたてま・かたち

最近は自宅で作業することが増えている。作業をしていると寝食を忘れるくらいつづけられる作業と、15分おきに違うことに目が向いてしまう作業とがあることに気づく。

前者は自分の中にあるモノをぶわーっと排出するクリエイティブな作業。
こうしたらこうなる、や、こうするともっといい。などちまちま1人で行う作業。
後者は人に聞いてどんどん進んでいく事務作業。調整みたいな作業。

自宅で人に会わず作業するのだから、クリエイティブな作業は誰にも邪魔されないのでとことんできる。事務作業はすぐに聞く相手がいない分すごくめんどくさい。当たり前のことだ。だから15分置きに気が散る。

ところで菊竹清訓の建築理論に「か・かた・かたち」というものがある。
すごく雑にまとめると、感覚的に思い浮かんだことを実際の出来事に照らし合わせて本質にたどり着くというプロセス。
これのことをふと思った。
1人の場合「か→かたち」はできるが、「かた」の部分には実際たくさんの人手(時間)がいるから、雑な「かたち」になる、なのでそれをまた「か」に戻したところで深まっていかず「かたち」にも手応えがない。
またはプラトンの対話篇、あれは哲学なので「か→かた」しかないが人と質問を交わしあうので「かた」を深めやすい。永遠に答えを出さないが。

では漫才のボケツッコミはどうだろうか、あれはふたりでやっているので一見「か→かた」にみえるが、客という存在が「かたち」に持っていってくれているのではないかと思った。
話はまたそれるがスタンドアップコメディとかは1人で完結してるけどあれは客とのやり取りで間など調整してくだろうからじつはすごく即興性が強いエンタメなのか?みたことないけど。
落語は客によって演目を変えるらしいけどあれは客の笑いまで含めて全部が完結されている全部出来上がったエンタメだろうか?みたことないけど。

ということで、やっぱり他人がプロセスの中に入らないと「かたち」にたどり着けないものですね。「かたち」にたどり着かずとも「か→かた」の空間の方が「か→かたち」の空間よりも面白いし好きだな。
あんまりきちんとまとまらんかったまあ要するにわたしは人の目がないとボーッと生きちゃうって話です。

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