父を自死によって亡くした私が、自死について感じていること

2020年7月18日、俳優の三浦春馬さんが亡くなったとの報道が全国を駆け巡りました。

テレビやSNSでは、三浦春馬さんを悼む声や、生前の活躍を称える声で溢れました。

彼の死因は自死とのこと。

タイトルにもあるように、私は十数年前に父を自死によって亡くしています。

人が自死を選んだ時、周囲の人たちは大変混乱します。

「自分に何かできたのではないか」

「なぜそんな馬鹿なことを」

「何か思うところがあれば聞いてあげられればよかった」

「なんとかなったんじゃないか、原因はなんだ」と。

残された人間は、故人との思い出、故人の胸の内、自分の無力さ、そういった様々な思いや想像が去来して、その重さに耐えかねてつぶれそうになってしまいます。

自分がつぶれそうになった時見つけた答えが「これが彼の最善の選択肢であったのだ」と認めることでした。

小さい頃から私はお父さん子で、反抗期によくある「一緒に下着を洗わないで」みたいな感情も持つことなく過ごしました。

父も私のことを本当にかわいがってくれて、普通女の子は興味を持たない、教えないようなこともがんがん教えてくれました。

そんな過去を過ごしていても、当時すでに独り立ちしていた私は、父とは長く離れて暮らしており、時々近況をやりとりするくらいのものでした。

成人して長く離れて暮らす彼の胸の内を、私が知りようもないのです。

知ることができないものは、想像を働かせるより他にない。

それは、自分で自分を追い詰める作業に似ています。

過剰に膨らんだ想像は、自分を責める材料ばかり探して「あんなにかわいがってもらったのに、お父さんの気持ちも分からず自分のことに夢中になって放っておいた、こんな薄情な私こそが生きていてもしょうがないんだ」と思わせるモンスターになっていました。

そこで思ったのが「今お父さんがこの光景を見たらどう思うんだろう」ということでした。

はるか高く天の上からか、あるいは同じ目線からは分からないけど、「自分が原因で娘が泣き暮れている姿を見たら」

自分の立場だったら、それこそ自分を責めるでしょう。

亡くなった後までも、自分を責めて責めて責めて、それこそ開放されるなんてことないんじゃないだろうか。

「自分の選択が間違っていた」と。

それも私の想像でしかないのだけど、私は私が想像できる範囲でしか生きていない。

だから私は、まず自死を選んだ人の選択を責めることはしたくない。

自死を推奨するわけではないけれど、実は「死んではいけないのか」に対する明確な答えをまだ持ち合わせていないのです。

生物として種を存続しなければいけないから、とか、悲しむ人がいるから、とか、色々答えはあるんだろうけど、それも全て「他人軸」で考えた答えでしかなくて「死ぬことで全てから解放されると自分が感じたから」という「自分軸」の考え方だと、自死は否定できないのです、個人的に。

だからせめて、すでに自死を選んでしまった人には「それがあなたの最善策であったのだね」と、選択を認めてあげたい。

そして、自死を選んだ人の選択で「自分を苦しめる」ことを辞めてあげてほしい。

人がどんな形でも亡くなった時、周囲の人間は喪失感や無力感に襲われるけれど、自死の場合「自分が選んだ死」であって、その選択をした結果、大切な誰かが必要以上に苦しみ続けるのは、本意ではないのかなと思います。(もちろん本人もそれを想像して苦しんで苦しんで、それでも選んだ結果かもしれない)

死を悼むな、と言ってるのではないのです。

「自死を選んだ人の胸の内は、周囲の人間の想像の範囲でしかない。自分の想像で自分を追い詰めないでほしい。故人が生の苦しみから「逃げた」なら、あなたも想像の中の故人の思いから「逃げる」ことを許されるはず」

人間は忘れないと生きていけない生き物なので、生きている人間に都合の良い思いで生きていっていいと思うのです。

そして私たちにできるのは故人を「決して忘れないこと」かなと。

俳優さんなら映像や映画を見る、そして「素晴らしい俳優がいた」と称える。それが後世までも人々の記憶に残り、俳優としての故人の本意にも沿う一番の方法なのかなと。(それも想像です)

私も、今年も運良く本を出していただくことができました。墓前に持っていって父に自慢をしようと思っています。


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