音を奏でること 2 続き


転校した中学校でブラスバンド部に入った私は友達と一緒に演奏出来る楽しさを味わい、ピアノの練習から解放され自由になった自分の時間を楽しんだ。映画音楽やその頃、流行っていた曲をサクソフォンやフルートでブラスバンドの仲間と演奏する楽しさはそれまで禁じられてきた事を堂々と出来る楽しさでもあった。そして放課後には好きなバンドのレコードを友達とお小遣いを出し合って買ったり、雑誌の切り抜きを交換したりした。もうピアノに未練はなかったし、むしろ解放されてみるとなぜあんなに下手だったピアノを毎日毎日弾いていたんだろう?とさえ思った。

けれどもピアノをすっかり忘れた私を両親は受けいれられなかったらしい。ピアノが無ければどんなに寂しかろう、と1年後私が高校に入学した事をきっかけに無理をして私と妹にアップライトのピアノを買ってくれた。その時の私はどうやら感覚が麻痺してしまっていたようで、狭いマンションの部屋に無理矢理置かれたピアノを素敵な楽器だと思えなかった。以前のピアノへ持ったような親しみを感じることもできなかった。更に、父親は高校1年生の私を音楽大学のピアノ講師のところへ連れて行き、「この子に音大受験をさせたい」と言った。もちろん1年もピアノに触れておらずすっかり熱の冷めてしまった私の演奏は酷いもので、その先生は「これでは残念ながら無理ですね。」と苦笑いで、その事は父親をひどく落胆させてしまった。「あんなに小さい頃から、色んな事を諦めさせてピアノに時間を割かせてきたのに、たった1年のブランクで全て台無しになるなんて、そんなことがあって良いのか、、、、、」
事業の失敗から、1度は家族との生活まで壊してしまった父、元々プライドの高い人だったが色んなものが崩れ去ってしまったそのあとの最後の望みが娘のピアノだった。自分達がそれまで娘に与えてきた音楽教育が間違っていなかったという証が最後の望みだったのだ。

いったい、音楽には全くの素人だった父が、あれほど娘の音大進学を熱望するに至った経緯はどんなことだったのか、今となっては謎だけれどもその時はまだ従順な娘だった私は、父の落胆は自分のせいだと責任を感じた。

さてこの話には一つトリックがある。
「音大受験させたい」と父が言った、と私は書いたけれど、本当は「音大を受験させたいのです、芸大を目指して小さい頃からピアノのレッスンを受けさせてきました。」と父は言ったのだ。そりゃあ「それは無理ですね」という苦笑いになるに決まっている。その頃から東京には芸大以外にもいくつも音楽大学があり、音楽専門学校だってあったし、いくらブランクがあったとはいえそれまである程度のレッスンを受けてきた高校一年生の子に、どこの音大にも入れませんね、それは無理です、という先生がいたとしたらそれは相当悲観的な性格の先生か、私の音楽的センスが致命的にないと思われたかだろう。「芸大、は無理ですね」という苦笑いだったのだ。けれど親子はそうはとらなかった。少なくとも父親は落胆した。そしてその娘はそれを自分の責任だと思った。
トリックは「芸大」というワードだ。
どこの音大も無理ですね、なんて誰も言ってない。それなのに何も知らない親子はガッカリし、それまで積み上げてきたものが無駄になったのだと思ってしまったのだ。

さらにその頃の我が家の状態は、ちょっと複雑だった。事業で抱えた借金の返済は全ての財産を手放してもとても足りず、自己破産という形でまさにゼロからのやり直しという状況は相当ストレスフルだっただろうと想像するが、両親ともに必死で生活を立て直そうとしていた。こういう時には女性の方が強いというが、うちの母もそうで、まさに脇目も振らず働き、あっという間に父の収入を追い越して稼ぐようになった。一方で父は元々繊細な性質でもあり、すっかり変わってしまった生活に馴染めないこともあったのか、仕事も思う様に行かず、以前のように溌剌とした様子はすっかり陰をひそめていた。その上に悲願だった娘の音大進学も水の泡となってしまった事はショックだったのだろう。その頃から父は私にイライラするとその怒りを暴力にして私を殴ったり蹴ったりすることが多くなった。そして私も自分がそれまで奏でてきた音楽から目を背けるようになった。

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