ひとつ答えが出ました

「好き」って何種類もあるらしい。
友達として好き、とか。
恋人として好き、とか。
家族として好き、とか。
人間の心の中で、それらは使い分けられているらしい、通説によると。私は知らんけど。

上に挙げた3つの好きは、私の中では全部同じだ。そりゃ、「好き」の深さはそれぞれ異なるけれど。友人Aに対する好きと母に対する好きだったら後者の方が深くて強い。そういう差異はあるけれど、それらを本質的に別物だと感じたことは無い。

どうも、自分は「友だち」と「恋人」の境界線が曖昧な人間らしいと気付いたのはここ数年のことだ。友だちに抱く想いはよく知っている。でも「恋人になりたい」という気持ちがどういうものなのか、いまいち私は知らなかった。

先日私は自分の恋愛指向が「パンロマンティック」と呼ばれるもので、恋をするのに性別を意識しないタイプだということを知った。私の恋愛と、同性/異性/それ以外の性別の概念は紐づいていない。従って、私の好みや趣味嗜好を一切省いて考えるなら世の中の人全員が恋愛対象になるわけだ。それを頭に置きながら親しい人たちと恋愛について意見を交わすうちに、私はあることに気がついた。

ヘテロの人達は、異性の友人が恋愛対象に変化することを「異性として見る」と表現する。彼らにとっては異性=恋愛対象なのだからそれは当たり前なのだが、これは「異性として見れない」=同性として見ている=友人と考えていることになるのでは?

ヘテロの人達は、誰かに好意を持ったときそれが「友だちの好き」なのか「恋人になりたい好き」なのかを判断するために、同性/異性をその判断の材料にすることが多いのではないか?
男女の友情は成立しないとかなんとかよく聞くが、同性だからこの好意は友情だな、とか、異性だからこの好意は恋情だな、とか、そうやって判断している人にとっては「男女の友情」なんて言葉自体矛盾している。

いや実際ヘテロの人達がどう考えているのか、私はヘテロではないから想像するしかないのだけれど、重要なのは、

私が「好きってなんなんだ!」と悩んでいたのは、ヘテロの考え方を基準にしていたからだ!

ということだと、今更気づいたのである。

パンの私には、ヘテロの人達が使うような性別の判断基準が無い。全人類と友達になれるし、同時に恋人にもなれる(理論上はね)のが私なのだ。「相手が異性/同性だから」というマジョリティが当たり前に使っている判断基準を持っていないわけだから友情と恋情を見分けるのがめーーっちゃ難しいわけだ!なるほどな!

他のパンの人達はどうやって、友達と恋人を考え分けているんだろうか。性的指向と結びつけるのが手っ取り早いのかもしれないが、それでいうと私は誰かと深いところで愛し合いたいとも思ったことがないのであまり当てにならない。

結局、誰かの基準で自分の好きを決めるのではなくて、自分なりの境界線を作っていかなければならないのだろう。それは今後の目標とする。

初めて太字効果を使ってまで、閃いた爽快感を伝えたかった。今日は満足である。また明日も良い思考と出会えますように。

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