小さくて黒い子がたたかうお話

今日は映画を観てきた。

こういうときnoteをやっていて良かったと思う。いくつかの140字の固まりに分けて感想を残しておくのも良いが、まとまったひとつの記事として自分が感じたことを記録しておけるのはやっぱり良いことに思える。何より振り返りやすい。

さて、観てきた映画は。

中国でつくられた映画『羅小黒戦記』(ろしゃおへいせんき)。この映画が大好きでこれで6回目だという友人に連れられ、吹き替え版で鑑賞してきた。あらすじや内容はHPを見て欲しい。

見終わって、まず思うこと。シンプルだった。

小さな子どもが自分の居場所を探してたたかうお話。対立しあう2つの出会いと、それぞれに正義があること。構図が掴みやすく、それ故すんなりと物語の内容に集中することができた。

キャラたちのセリフが少ないのが印象的だった。ハイスピードに頼らないテンポの良さが心地よく、セリフが渋滞しないからこちらにも余裕があり、色々と考えながら観ることが出来たのも良かった。

吹き替え版では、「共存」という言葉がひとつのキーワードだった。初めにこの言葉が映画の中で登場してからスタッフロールが終わるまでずっと、私はこの言葉選びに納得がいかなかった。

「共存」しているつもりでいるのは妖精たちだけなのに、その言葉は正しいだろうか。もっと別の言葉があるんじゃないか。人間は妖精と共存しているなんて思ってはいない、社会は自分たちだけのものだと思っている。もし人間が妖精たちの存在を知ったら?もし奴らが「共存」を拒否すればそれは成り立たなくなる。共に、という言葉が使われている通りそれは相互の契約であるはずのもの。妖精たちが人間たちの存在を認め、彼らから存在を悟られないよう生きているその様子を否定したい訳では無い。むしろ逆で、それは一方的な認識なのに、「共存」という言葉のせいでその様子が正しく表現されないのが悔しいのだ。

ムゲンとフーシーにはそれぞれの正義があって、それぞれの視点からはどちらも正しい。どちらが良いか悪いかは視点を置く位置によって変わるからそれを決めることは本質的じゃない。それぞれの主張を一旦抜きにして、どちらに肩入れするかを決めるとするなら、私はムゲンかなと思う。

ムゲンとフーシーとシャオヘイ、3人の戦闘シーンがあった。ムゲンは落下してきたシャオヘイの胸ぐらを掴んでキャッチする。シャオヘイを地面に下ろして手を離したあと、ムゲンは皺になったシャオヘイの襟元をすっと直してやるのだ。戦闘シーンの真っ只中だというのに、自分が皺にしてしまった襟元をきちんと直してやれる彼を見て、ああ、大事にできる人なのだ彼は、小さな子ども相手でも。そう思った。

正義のために誰かを傷付ける手段を選んだ人はいても、他人を傷付けたくて傷付ける人が出てこなくて良かった。後者が出てくると私は何も言えなくなってしまう。そういう意味では安心して見れる作品だった。

友人が6回も観たくなる理由が分かる気がする。シンプル故に、1回を観るハードルが低い。軽い気持ちで、もういちど観たい、と思えるし、想像の余地があるから違う考えを巡らせながら観るのも良いだろう。上映が終わっているところも多いようだから、近いうちにまた見に行こうと思う。

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