奇跡は間に合わない

途方もない数の選択結果により、『今』がある

ゾッとする。あの採用面接での立ち回りが違っていたら。あるいは、採用担当の人の好みでなかったら。もっと言うなら、自分の未来を選びとるための価値観形成が違っていたら。あの本に出会わなければ。あの人に出会わなければ。あの映画を見なければ。あの帰り道がなければ。あの会話がなければ。あんなことをしなければ。あれをしていたら。今の親の下に生まれていなければ。

考えるだけで怖い。怖いのはきっと、今の自分の人生が悪いとは思っていないから。恵まれた環境にいる自覚があるからこそ、無くしたときのことを考えて怖くなる。予期不安。

つまり、今の自分は奇跡の産物なのだ。
これは他者も同様。

それぞれの人生にありえない背景があって、その結果、自分の近くにいる人。

俺は、これを『運命』と思いたくなる。

でも、こんなとてつもない確率を乗り越えてもなお。人生の糸が絡み合うには至らない。絶望しかない。自分が乗り越えて来たと履き違えた確率はただの前哨戦でしかなく、挑戦権を得たに過ぎない。自分の勝ち取りたいものを得るには、違う奇跡を起こす必要がある。

頑張れば届くなら頑張る。頑張ることには自信がある。我慢は効くし、一度エンジンが入るとムキになる性格だ。努力の量と望む結果に相関があるのなら、俺はなんでも犠牲にする。

でも、どれだけ頑張っても残念ながら変えられないものがある。それが、他人の気持ち。価値観。人生。

無力感しかない。繰り返すようだが、頑張りたくないんじゃない。頑張ってもアンコントロールなものがあるのが怖い。大きなストレス。

触れれば触れるほど、その手触りに惹かれていく。首の使い方、会話のトーン、言葉遣い、価値観。知っていることが増えるたびに、これ以上知ることは出来ないのだなと絶望する。

だったらもう触れたくない。
触れている時間は楽しい。全てを忘れるぐらいに幸せで、この時間が刹那であることを望む。でも現実は有限で。おろか、触れるたびに蟻地獄に搦めとられ、抜け出せなくなる。魔宮。

何回ミラクルを起こせば、幸せな人生になるのだろう。望むものが手に入るのだろう。
置かれた場所で咲きなさい。確かにそうだ。でも裏を返せばそれは怠惰であると思う。だって俺は、どこでもかしこでも置かれてハイハイ頑張りますと受け入れるほど受動的な人生を送ってきていない。また、そんな逞しさもない。最低限花壇を選べるぐらいの努力はしたいし、最適な生育環境を知るための勉強も怠らない。自分の人生の主導権は、一定自分で握りたい。アンコントロールはとにかく不安定で怖いから。

でも。繰り返すようだが、他者の気持ちなんてものはアンコントロールの筆頭格なのだ。俺の情緒をかき乱し、人生を揺るがし、それが幸にも不幸にも繋がる劇薬。

俺はワガママ。欲しいものは、全部欲しいのに。

奇跡は、間に合わない

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