にんニク多メ、希シ念慮マシマシ

努力だけでは手に入れられないものを『才能』という言葉で定義すると、きっと他者から好かれることは立派な才能なんだと思う。

フランケンシュタインみたいなことを言うが、俺には人に好かれる方法がわからない。厳密に言うと方法論として理解しているところもあるが、それを外部に上手く出力することができない。

頭の固さ、偏屈さ、圧倒的不器用さ、天邪鬼、我の強さ、、、
色んな要素が複雑に絡み合っている。

円滑で良好な人間関係をつくるにおいて、「嘘」は必要悪であることも多い。俺はそういう嘘すら器用につくことができない。

今まで、自分が思うがままに好きなように生きてきた。なぜか周りには友達がいてくれた。

でもそれも「なぜか」である。自分では未だに理解できていない。こんな面倒な飛び道具の何が良いのか、と。正直、色んな友達の口から直接訊きたい。でもそんな甘えたこと、言えるはずない。

だって唯一ぐらいわかっていること。俺はそもそも他人に関心がないと思われている。否定はしない。赤の他人に対しては何の興味も沸いてこない。

その分、信頼している人や仲の良い人には倍ぐらいの気持ちを持っているつもりではある。だがそれも上手く伝えられているかはわからない。

だから仲の良い人においても「急にそんなこと言ってどしたん?」となるのが関の山である。

そして、元々ホントに謎で良くしてくれている人がほとんどだから、急に離れていってしまっても文句は言えない。自分に厳しく言うと当然とも言ってしまえる。

でも寂しい。眠れなくなるぐらいには怖いし、頭がボーっとしてしまうぐらいには引き摺るし、口がぽけーっと開きっぱなしになるぐらいには悲しい。

20代も二年目になった今、みんなは大人になりつつある。自分の人生の解像度が上がってきていて、「今、こうしたい」「今、これをしなきゃ」が明確になっている。その細やかなドット絵の中に、俺のテクスチャは減ってきてるみたい。

最近、漠然と考えてしまうこと。
多分、みんな自分の周りからいなくなってしまう。
冗談抜きで、自分のことが好きな人なんかいないだろ、と思ってしまっている。誰も俺に興味なんてない。

普段は一人が好き、みたいな顔をしておいて、いざ一人になるのは怖い。どんだけ甘えてるんだという話。その矛盾してる感じとか、弱い感じ、暗いオーラを見に纏って周りを巻き込んでしてしまうところ。全部腹が立つ。そして周りが自分を敬遠してしまう悪循環。

もう自分は、誰とも関わっちゃいけない人間なんじゃないかとすら思ってしまう。

自分にいいところがないとは言わない。でもそれは、社会で平穏に生きていくためには不要なものばっかりで。こういうことを言うと「お前にしか持ってないものやん」と褒めの調子で言われたりもする。嬉しい反面、他人だから綺麗ごとみたいに済ませられてるような気がする。
いや、みんなはどこまでいっても他人である。そこに答えを委ねようとしていることが、互いにとって失礼で意味のない行為のような気もする。

でも本気で辛くなることがある。
人として然るべき感情が欠如していると実感する瞬間。みんなと同じ共感を得られない瞬間。他人との尺度をすり合わせるのを放棄して、はなから近しい人としか関係を持てない傲慢さ。数少ないやっと見つけた共感者がどこかにいったときの絶望。それを繋ぎ留められない自分の魅力のなさ。人と自分との熱量の天秤がフィフティフィフティでなくなったときのやるせなさ。でも心のどこかには、人と違うそんな独自の感性を持っている自分のほうがいいんじゃね?とか未だに思ってしまう低俗で最低で浅ましくて見るに堪えないナルシズム。

卵が先か鶏が先か、みたいな話になるが、一人でもある程度は楽しめるような土台作りをしてきた。それは紛れもない自分の特性だと思ってきた。それでつかの間の寂しさを感じないように、小手先で取り繕う術は心得てきた。
でも、『一人でいることに満足をしてしまっている自分』がそもそも寂しい状態なんじゃないか、と思うことがある。

それは刷り込まれた概念? 本心? どこから湧いてきたもの? わからない。

結局、デカルトの心身二元論よろしく、心と体が完全に分離してしまっている。頭で考えている理想に対して、身体が動かない。というかどうしたいかすらわかっていないから指示を出すことができない。

自分の信念に腹をくくる覚悟もない。ただのチキン野郎だ。サーカスの巨大ブランコみたいに、宙ぶらりんになった自分の心。

希シ念慮マシマシ、これは誰のための、なんのための、何をしたい人生なのかがわからない。闇の袋小路。


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