読ませる文章の謎

やたらダラダラと文字列が整列する文章でも読みやすい文章は存在するし、短文羅列でも読みにくい文というのは存在する。

例えば、国語辞典をはじめとする各種の辞典は基本的に段落や改行を挟まぬ圧縮文体である。そしてこれらは基本的には初学者向けの本だ。これはどこの国のどの辞書でも似たもので、実はOED(オクスフォード英英辞書)なんかも、まあちょっと英語読めたらある程度は使いこなせるし読めるのである。当たり前っちゃ当たり前の話だが。語学の辞書・辞典が語学的に難解だったら使いこなせないもの!

朝にも書いたが、近年「読みやすい文を書こう!」と叫ぶ組織は改行を多く入れろだ、漢字を減らせだ、妙なことばかり口走るである。なんでかな? と一瞬悩んで思い至ったのだが、彼らは「読みやすい文」を「アホにも書けるように」

「バカでも読める文にしろ」

と言うてるのではあるまいか。提唱者自身もバカの類だから、提唱内容もしょーもない。こうしてバカが拡大再生産されてしまうのだ。なんたるちあ!

例えば、「ホモ・サピエンス・サピエンスの社会行動規範の変遷について」なんて文章書くとしたら、対象の名前書くだけで14文字とか取られるわけだ。「ディレイドブラストファイアーボールの投擲」なんて、それだけでnoteのスマホ入力画面上で1行以上を占有してしまう。なのに5行にしろとか無理無理の無理である。一段落中に2回出したら残り2行半とかだぞ。無茶をいうな。

語る内容について…例えば高分子化学の論文で複雑な化学式で記された物質の重合反応とか記述し、段階的な反応過程を叙述したら…当然5行とかで段落まとめるのは無理だ。叙述内容が難解になればどーしても紙幅は費やされるし、精緻な表現したらそらーもー盛大に場所を取るわけだよ。ならばその様な文章は読みにくいのか?

有り体に言えば読みにくい。しかし読みにくさの質が違う。文章が難解なのと、用語が難解なのは別の事象だし、改行するしないとか「段落に含まれる文字数の大小」というのは読みにくさに直結するわけではないのだ。例えばだ…

「慎吾は男であり、男としての矜持を持った好漢である。彼は年頃の男がそうであるように、やはりその時期新撰組に憧れて京都での修学旅行でだんだらの羽織りを買ってしまうような…多少残念なところはあるが、基本的には純真で真っ直ぐな、浪漫に心揺さぶられる好青年である。唯一困った点は…それが高校生になっても、大学生になっても、大学中退してニッサンのセールスマンを始めても、結婚して子を成しても変わらず、その上ドマニアを拗らせて土方でも斎藤でもなく…初期に登場した誰も知らない隊士の一人の名を娘に付けるような…そんなところだった。」

ワザと長くしたが、読むのに苦はないだろう。羅列をツラツラ並べても「文章構造が単純明快なら」読めるのである。これが「必ずしも〜という訳ではないのだが」「しかし〜」などの内容がストレートではない描写や叙述が複数含まれたり、カッコで囲った文が複数入れ子構造になっていると内容は掴みにくくなる。「些か話は飛ぶがこれには奇妙な裏話がある…」なんて司馬遼太郎がたまにやる「あれ」は、文章そのものはシンプル極まりないのに「文章構造を複雑化して」読み難くするという高度なテクである。あれ始まったらそこにしおりを挟んで置かねばならない。

スパッと書く。文章構造がシンプルだと可読性は上がる。文長の問題や改行の問題ではない。この様な文章構造に踏み込んでアドバイスできなかったり、オーディエンスの理解力の問題で複雑な話が出来ないからシンプルかつ誰にでもできて比較的効果的な「行数」とかの話に終始するのであろう。簡単な話、文章修行するにあたり一番シンプルかつ地力が育つのは「よく読み、よく書く」事に尽きる。よく読まずよく書かないから下手なのに、その下手糞に修練を勧めず「ライフハック」的なテクだけで何とかしようとか「横着するから」ヒデェ話になるんだと思う。

というか、長文読み込むのだって「訓練次第でどーにでもなる」のは受験勉強で明らかではないか! 我々はあの過程で長文読解能力の涵養をしたのでは無かったのか。諸君は長文イヤーんで問題投げたのか? たまたま長文の設問が無かったから合格出来たのか? 



方針変えて、noteでの収益は我が家の愛犬「ジンくんさん」の牛乳代やオヤツ代にする事にしました! ジンくんさんが太り過ぎない様に節度あるドネートをお願いしたいっ!