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宗教の与えるもの

「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の宝海に流す。」(顕浄土真実教行証文類 化身土文類 後序)

今回は宗教を信じる人に宗教が与えるものとは、というお話です。

宗教というと、怪しげなものというのが一般的な認識のようです。
これは本願寺派の前門主様が本の中で書かれていたことですが、子どもの大学進学で、東京に上京することになった。東京でどこか賃貸を借りるというので、親も一緒に行って賃貸を探していた。不動産屋で物件の情報を見ていると「宗教はお断り」という但し書きのついた賃貸があった。不動産屋に「うちはお寺なのですが、よろしいでしょうか」と訊くと「お寺は大丈夫です」との答えだった。とこのようなエピソードがあります。

宗教と一言で言っても、意味するところは人によって違います。一般的には宗教というと統一教会や創価学会のような主義主張が明快で、組織を持っているところというイメージがあります。
少し広い意味になると、一応主義主張はあるが、曖昧性があり許容範囲が広いもの。神社やお寺もここになります。
もっと広い意味の宗教は、八百万の神とか、森とか長年使われた物には精霊が宿っているとか、スピリチュアルとかパワースポットとか、日常の中で見聞きするようななんとなくあるかもしれないと思っているようなものが入ります。

 さて、そういった「宗教」というものが信じる人に何を与えるのか。一般的な人は「行動指針」を与えられると想像するのではないでしょうか。しかし、そういった行動指針を与えるタイプの宗教というのは、狭い意味での「宗教」です。この場合、自分の選択は神様、仏様によって定められたことを選んだだけ、と思ってしまう。もしくはもっと悪い場合だと、この選択をしたことを無駄にしないように、もっと神様に喜んでもらうように、仏様の目に留まるようにと止まることなく突き進んでしまう、そういった性質を持っています。
 日本に昔からあった宗教は「心のよりどころ」を与えるといわれます。この「心のよりどころ」という言葉をよく考えてみたのですが、人によってそれぞれあると思います。

 私の場合、今の生活において心のよりどころ、は阿弥陀様を置いておいて、考えてみると「家」というのが近いと思います。建物としての家、ではなく、家族が帰ってこれる場所であるようにすること、というのが今の生活においての「心のよりどころ」かもしれません。子どもたちや家族にとっての「心のよりどころ」であってほしいと思うと同時にそれを実現するために色々毎日仕事や家事をすることが私の「心のよりどころ」になっているという感じでしょうか。
 じゃ、阿弥陀様はいらんのか、というとそうではありません。
 私の今の「心のよりどころ」はそうであっても、ずっとそういうわけにはいかない、というのが仏教の教えです。お釈迦様は諸行無常と説きました。それは永遠にあるものはない、すべてのものは変化していく、人も変化する、家も変化する、社会も変化する、それが仏教の教えの根本です。実際に私の今の生活も永遠に同じというわけではなくて、子どもは成長し巣立っていきますし、大人は年老いていきます。それを考えると「心のよりどころ」もずっとあってほしい、ずっといてほしいと思ってもそれは無理なことです。私の場合は家が「心のよりどころ」ですけれど、例えばアイドルを追っかけることとか趣味を充実させることが「心のよりどころ」だ、とかなにかしら仕事をして働き続けることが「心のよりどころ」だ、とかそれぞれの人にそれぞれの心のよりどころがあります。しかしどんなものを「心のよりどころ」としていても、それを永遠にできるとは限らない、むしろそれができなくなる日が来る、ということは心にとめておかねばらないことです。それは「心のよりどころ」としていた対象がなくなってしまったり変化してしまってできなくなる場合もあるし、逆に自分自身が年を取って体がうまく動かなくなり「心のよりどころ」をできなくなることもある、ということです。

 そういう中で「宗教」が与えるよりどころは、絶対に最後の最後、どんな変化にあっても奪えないもの、なくならないもの、という事であろうと思います。
最初にいただいたご讃題は親鸞聖人の『教行信証』の最後の部分です。
「慶ばしいかな、心を弘誓の佛地に樹て、念を難思の法海に流す」喜ばしいことである、心を本願の大地にうちたて、思いを不可思議の大海に流す、と現代語訳になります。
 弘誓の佛地というのは弘誓は本願のことで阿弥陀様の四十八願のことです。それを佛地と、地は大地の地ですので、阿弥陀様の本願を大地に例えています。「たて」は漢字では樹木の樹という字にてと送り仮名を振って「たて」と読んでいます。この字をつかっているところを見ると、ただ固い土の上に心の支柱を立てるという柱のイメージとはすこし違うように思います。阿弥陀様の作られた広大な大地にしっかりと根付く一本の木を立てる、根がしっかり張って風や地震にも倒れない、大きな心の木がすっくりと立っているイメージが私の中に湧いてきます。
 次の「念(おもい)を難思の法海に流す」とは、私たちの思うことのできない、考えることのできない、阿弥陀様のみ教えの海、に私たちの思いを流す、ということです。いろいろ思いわずらうこと、親や先祖は地獄にいるんじゃないだろうか、とか私は浄土にいけるんだろうかとか「心のよりどころ」はずっとありつづけてくれるだろうか、という思いは阿弥陀様のみ教えの海に流されていく、ということです。
「南無阿弥陀仏」の六字は、私たちの心の支えとなる大きな木、絶対に倒れることのない支柱を与えてくれるように私は思います。

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