ツイッターを読んで感じたこと。

ぷらすです。

先日ツイッターで話題になった『批判は何も生まない』というマンガの話を書こうと思います。
本当は、ツイッターの画像を貼りつけちゃえば早いんですが、晒し上げみたいになってもアレなんで、ざっくり概要を。(気になる人はツイッターで探してください)

① ある女の子(多分)が、友人と大好きなアニメの劇場版を観に行った。

② 劇場版に女の子は大興奮。『当然』友人も同じ気持ちだと思ったが、友人の口から出てくるのは劇場版の批判ばかりで大ショック。

③ 女の子は後日、一人でもう一度劇場版を観に行ったけど、やはり面白かった。ただ、そのアニメを見るたびに、友人の言葉を思い出してそのアニメ自体を純粋に楽しめなくなり、やがて興味を失ってしまった。

④ 批判は何も生まないし、大切な思い出をぶち壊してしまうという結論。

ざっくり書くとだいたいこんな感じ。

で、それを読んだ人たちからは、

① 同意。

② 批判されたくらいで興味を失ってしまうのは、元々そのアニメがそんなに好きじゃなかったのでは?

③ アンチの言うことなんか気にすんな。

大体そんな感じの反応がありました。

で、僕はといえば、この漫画を最初に読んだときにちょっと違和感があったんですね。
なんていうか、漫画の内容と結論がチグハグな印象を受けたわけです。

どういうことかと言うと、
一緒に劇場に行く位だから二人は友達だろうし、(多分)そのアニメのTV版は二人とも(温度差はあれど)気に入っていて、話をしたりしていたんだと思うんですね。
その劇場版が公開されたので、女の子は友人を誘って観に行ったら、女の子にとっては素晴らしい作品だったし、『当然』友人も楽しんでいると思ったのに、友人は劇場版が気に入らなかくて、素晴らしいと思った作品をこき下ろされてしまった。
女の子はその事がショックで、そのアニメを楽しめなくなってしまったんですよね。

ここまでは、個人的な体験と感情で、よく分かります。
僕も少なからず、女の子・友人両方の経験をしてきたので。

ただ、その個人的な体験を『批判は良くない』っていう一般論に持って行っちゃったところで、なんか「あれれ?」ってなっちゃったんですよね。

この物語は、要約すると『仲間』だと思っていた友人に、冷水を浴びせられて傷ついた。という個人的な話なんじゃないかなーと。
ところが女の子は、自分が傷ついた原因が『批判』にあると思ってしまった。
そこが、僕にとっての違和感だったんですね。
え、それちょっと違わない? と。

『批判』されたのがショックだったんじゃなく、友人と気持ちを『共有』出来なかったことがショックだったんじゃないの?って。

もちろんそれは、二人のどちらが良い悪いという話でもなく、単に意見が食い違っただけの話で、友人の視点から語ればまた違う話になると思うんです。
で、二人は(多分)まだ若く、大人同士なら何となくお互いの空気を読んで相手が傷つかないようにするところを、まだそこまで気が回らなかっただけの話なんじゃないかなーと『僕』はそう思ったんですね。

これは、オタク同士(オタクじゃなくても)ではよくある事で、そうした経験を繰り返しながら『オタク強度』が上がっていったり、コミュニケーションの取り方を学んでいくんですけどね。

それがツイッターで広まるうちに、彼女(もしくは友人)が「正しいor間違ってる」の話になっていっていて、そこも含めて僕には違和感だったんですよね。
それはツイッター(というかネットの中)だと、ある程度仕方ない事なんですが、どうしても「正義と悪」の単純な二元論になってしまって、本題から離れていくというか、「主題はそこじゃないのになー」って思うことがしばしばあったりします。

一つの出来事は、視点によってその形を変えていくし、その他にも色んなプラスアルファーの要素が絡んでいるわけで、そういったことに、出来るだけ想像力を働かせながら読み解く努力をしなくちゃなーとそんな事を感じたというお話でした。

うーん、イマイチ上手くまとまらないけど、ではではーε三三ヾ(ΦωΦ)ノ

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