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あの夏の暗い夜、虹の袂のエデン。序文。

Oi-SCALE2022年本公演「あの夏の暗い夜、虹の袂のエデン。」(8/31〜9/4@新宿シアタートップス)上演にあたって、この作品に取りかかるに至った心の在りどころみたいなもんを書きます。これを読んでから劇場に来てくれた人がより一層作品を楽しんでもらえたら良いし、願わくばここに書いたことを読んで観劇のきかっけにしてくれる人が居たらさらに良いっ。

公演についての概要は→ 公演特設ページ をご覧ください。

去年の夏、僕の頭ん中は色々バグってた。
体調も悪かったし、期間が伸び伸びになった緊急事態宣言のせいだったかも知れない。まん延防止措置に引き下げられたのに数日で感染者が拡大してすぐに再び緊急事態宣言が出されたりもしたしね。
無観客で強行された国際的なスポーツの祭典が1年遅れで2021年開催になったのに2020って銘打ったままの違和感で時間の感覚も狂ってたのもあるかな。
著名人を含め多く感染やそれが原因とされる死亡のニュースも続いた。自殺した人も多かった。
仲間の舞台やライブや祭ごとは終演時間を早めるとか、換気や検温チェックをするとか、なんとか工夫しながら少しでも再開の方向に進むような努力はしてたけど、相変わらず中止も多かった。
半信半疑だった多くの人も徐々に街から消えて夜は家に篭った。そんできっと少しづつ家に篭ることにも慣れた。慣れない奴はネットの中に気持ちを紛らわす方法を見つけたり、外で酒を飲む奴らも少しは批判の視線を気にしながらになったと想う。
社会不適合な僕は、みんなが仕事をお休みしてくれたら、自分も同じ顔して俺が何も出来ないのはコロナのせいって言えるのが不純にも楽な気持ちもあった。みんなが休んでる時にこそ出来ることをやって、ちょっとでも社会の速さに追いつけって話だけどさ。自分は馬鹿だから風邪ひかないのに、クラスの大勢の子が風邪ひき始めてるから、自分も具合悪いふりして学級閉鎖になるように加担するみたいな感じ。いつも勉強しないくせに、今勉強できないのは風邪で具合が悪いからって、言い訳だけを他人から借りてくるみっともなさは、まあね、自分でもうんざりなんだけどさ・・・。

当たり前に早くまた元に戻ったらいいなって想うけど、色んなことがおさまった後で、本当にちゃんと元通りに戻ることなんてあるのかな?って不安にもなる。
すぐにマスクを外せるやつもいるだろうし、マスクをしてる安心感が抜けなくてもう大丈夫っていくら言われてもマスクを外して人に近づくのが不安に想い続ける人も居ると想うし、他人にどうして欲しいって想い方もみんなそれぞれ違う気がする。かつてヘビースモーカーだった僕がタバコ辞めてからは、元からタバコ吸わない人以上に嫌煙家になったみたいなこともある。
つまり一度波にさらわれて、また皆が元の場所に戻ってこれたとしても、もう心は修復が難しいくらいバラバラに形を変えてしまうんじゃないかなって・・・・2021年の夏、暗い夜に想いながら年末の公演の準備を始めてた。(無事に公演は事故なく発表出来ました)
その前回作品を夜な夜な執筆してる時に、何度も10年前のことを想い出していた。

2011年の夏の夜も暗かった。

東日本大震災後、福島原発事故の影響で電力の需給ひっ迫地域では(もちろん東京も)大型の店舗なんかに電力の使用制限が出されたり、日にちと時間を決めた計画停電がされた地域もあった。広く節電が呼びかけられて、僕が東北のボランティアから東京に帰ってきた後ではじめた深夜の配送のアルバイトでハイエースを走らせた高速道路は街灯が間引きされて、凄く暗かった。

今まで震災の話をちゃんと文章にしたり作品にしたことはない。
被災者じゃない自分が知ったふりして書くのがはしたない様に想ってたし、何よりもそういう気持ちを吹っ切るだけの文章力や伝達の力が自分にはなかった。

でも僕は色んなところで岩手県が好きだってことを言ったり書いたりは昔からたくさんしてきた。子供の頃からなぜか宮沢賢治の書く話が好き(ちなみに僕の初舞台は小学校の学芸会「銀河鉄道の夜」蠍座の役だった)なのもあるし、単純に全国をバイクで旅した中で一番好きな場所が岩手県だった。話すと長くなるんで割愛するけど花巻市や宮古市の景色に何度も救われた。
20代後半から毎年岩手に泊まりで遊び行ってたから多く想い出もあるし、いくらかメールでやりとりする地元の知り合いも出来た。

だから震災の後も、数日後じっとしてられなくて友達と車で現地に行った。
常磐線を四倉で降りて、そこからは下道で6号線を北上しながら、時に海岸に出たりしつつだったんだけど、北上するにつれて地震と津波の被害は目に見えてひどくなって、倒れた看板や割れた店先のガラスとか、流されてきた船や車や、隕石が落ちたみたいな穴が地面に空いてたりしたのを見た。まるで戦争の後をイメージして絵をかいたみたいな景色だった。
いわき市を過ぎて、自衛隊に車を止められて、これ以上海岸線は進めないから迂回するように指示された。その時点では原発事故の規模について認識がなかったから、訳もわからなかった。
大きく内陸を遠回りして国道4号線と6号線が交わる岩沼市あたりから、再びできる限り海外線の道を進んだ。道というか、除雪車がとりあえず車が通れるように積もった雪を道路脇に跳ねてどかしただけの冬の道路みたいに、ブルトーザーがこじ開けた通りを車でなぞってゆっくりと走った。そのあみだくじみたいにとりあえず作られた道のまわりは「瓦礫」って言葉なんかで片付けるわけにはいかない、震災前までの人々の生活の全てを寄せ集めてクラッシュしてばら撒いたみたいにあらゆるものが散らばって、積み上げられていた。

塩釜市、多賀城市、松島、東名浜、石巻、から宮古市まで、3日間通れる場所を探してのろのろ進んで、ろくに寝もせず、ただただ信じがたい景色を見てきた。潰れた車の窓には色のついた紙が貼られていた。中に人がいない事を確認した印なのか、中に居る人の死亡を確認した印なのかわからなかった。大きなコンビニの看板だけが立ってるのに見渡す限り周りには泥以外に何もない場所や、家の2階に船が突き刺さってたり、川の向こうのたいして遠くないのに全く被害のない少しだけ土地の高い場所で、誰かと電話してる人が泣きながら家の壁を叩いてた。下水の匂いと潮の匂いと、泥と何かが腐った匂いが混ざってた。夜なのに、近道するみたく中学のジャージを着た男の子が学校のヘルメットをしてマウンテンバイクで瓦礫の道を疾走してた。幽霊かもしれないって、本当に静かな気持ちで想った。少しの土地の高さや、川との位置の関係で被害が少なく営業が可能な店舗の前ではカセットガスコンロが沢山売られていた。避難場所を覗いたり、アーケード街のガラスが割れて道に散らばった仙台駅周辺の牛タン屋まで行ったりした。
カメラも持ってたのにレンズをむける勇気がなくて1枚も撮らなかった。

瓦礫は家であり、道であり、学校であり、車であり、船であり、家族であり、人であり、ペットであり、本であり、ノートであり、おもちゃであり、家具であり、仕事道具であり、布団であり、洋服であり、人の生活のすべてなのだと想う。
瓦礫を辞書で調べたら[かわらと小石。価値のないもの。つまらないもの。]って書いてた。
だとしたら僕が見たのは瓦礫じゃなかった。

東京に帰ってきた僕は、寝不足のまま渋谷の病院でアレルギーの薬をもらいに行った。渋谷の夜は明るくて煩くて、バイクを停めた駐輪場に戻る途中でめまいがして嘔吐した。

2011年、当時の仲間との芝居への考えたにも見事にヒビが入って、先行きが見えなくなって、僕は自分がどうして東京にいるのか見失いながらその焦りを、今は被災地の救済に心を向けてるからであって優先順位の問題であると誤魔化してボランティアをしていた。
その中で貴重な出会いと体験も多くあったし、魂の震える話も聞かせていただいた。
だから本当はそれを書かなくちゃなんだけど・・・・。

子供の頃に学校の授業や年寄りが熱心に戦争の話をしてくれるのがつまらなくて、僕は特に何も想わなかった。大人になるまで真剣にその意味を考えることが出来なくて、戦闘機やライフルが格好いいなとか想ってた。
2011年のあの日の事を知らない若者や未来の人たちに、今度は僕たちが伝えないといけないことを体験したのだと想う。そう想いながらも、僕は今まで何も書かなかった。

南相馬で90歳を超えるおばあちゃんが、「また避難するなら老人は足手まといになるから・・さよなら・・私はお墓に避難します」って遺書を残して自死されたニュースがあった。90年生きてこられたのに手の中には優しさしかないおばあちゃんがその手で自分を殺した。
ショックだった。ショックだったけど僕の話じゃない。
歳とった自分の母ちゃんに電話したかったけど、電話したとこで、東京での生活はうまくいってて順調だよって嘘をつく元気も僕にはなかった。

2021年の夏の暗い夜空から、カラスの鳴き声が聞こえた。
暗い夜だからカラスの黒い姿は闇に紛れて見えなかった。
だけど鳴き声と羽ばたく音の後をついて行ったら、いつの間にか僕は2011年、あの夏の暗い夜に迷い込んでて、ああそうか今書かないとなって想ったんだよな。病院で両腕に点滴打たれながら、僕は丁寧に想い出していた。

暗い夜の道にあるトンネルはあの日の暗い夜へと繋がるトンネルの入り口だった。

頭の中が憂鬱でいっぱいになって、心が苦しいときは、虹の向こうにある楽園を想像する。本当にあるのかはわからない。でも信じるなら虹の袂で待ち合わせをする。

今言わないで、いつ言うんだよって事以外に、今何を言うんだよ。
気に食わない苛つきを癇癪を起こさず、丁寧に芸術という行為に向き合う。芸術が表現者や表現物と鑑賞者が相互に作用し合うことなどで精神的・感覚的な変動を得ようとする活動を表す。って事はとっくに承知な上で、それは僕にとっては武器であり羽である。

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