見出し画像

全部、まわりまわったら自分のため

苛立ちの感情は、だいたい時間差でやってくる。人に何かを言われたとき、その場ではなんとも思わなかったはずだったのが、後になってから「あの人のあの言葉、今思い返すとむかつくな」と感じる。苛立ちは、突き詰めるとだいたいの場合は悲しみのような気がする。わたしはきっと、その場で言い返せなかった、怯んだ、というよりは、その場で真っ向にその言葉を受け止めてしまう以上に、その場をいかに社会的動物としての「常識さ」を失わないようやり過ごすことを優先しているから、すぐには苛立ちの感情がやってこなかったんだと思う。その場では、自分が少しむかむかしていることに、わたし自身も気付いていない。自分の根っこのところにある感情は後回しにして、今自分がどう振る舞うべきか、を最優先事項においているから、一旦見逃されてしまっている。時間差でやってくる感情が悲しみではなく苛立ちなのは、そんな、その場で自分の心を守る行動をとれなかった自分自身への怒りも含むからこそ、めそめそ泣くのではなく、むかむかと腸が煮えくり渡るような苛立ちという感情で出力されるのかもしれない。と思ったけど、そんな自分の、悲しい行動があった→「常識的振る舞い」をすることでうまくやり過ごす手段を選択する→後から思い出しては苛立つ、という思考のプロセスを少し離れたところから観察してみると、まあ自分自身にはそんなに苛立つ必要もないかな、と思えてくる。自分の本心を守る行動をとりたい気持ちもあったけれど、でもそれ以上にこの社会での自分の立場を守る方を優先したわけで、それだって自分を守るためであったのだから。わたしは自分を蔑ろにしたわけじゃないよ。「いつも自分より他人の感情を優先しちゃう」「自分の人生を生きなきゃ」とかそういうことではなくて、人の顔色を伺ったり、過剰に空気を読んでしまうのだって、まわりまわってそれが自分自身のためになると信じているからこそ選択しているだけであって、本当は全部が自分自身のための行動だってことにまず気づいて、その上で自分が納得できる選択をいつまででもできればいいのだけど、なかなかそう簡単にはいかないよね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?