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誰にも解釈されたくない

子供の頃、どうして自分はこんなにも場を楽しめないのだろうと本気で考えたことがあった。小学二年生くらいの頃だったと思う。他の人の頭の中を覗いたわけではないけど、なんだかみんな楽しそうだし、誰かと関わりたそうにしているのに、わたしは楽しくない。とはいえぼっちになる勇気もなくて、誰かと一緒にいることが多かったけれど、なんとなく楽しくない。友達のことを好きかと聞かれると別に好きじゃなくて、ただ同じクラスになったから一緒にいるだけの人としか思えなくて、わたしが誰かをそういう目線で見ているということは、すなわち相手もわたしのことを、所詮ただのクラスメイトとして見ていた可能性もあるということだ。みんな、どうして人を好きになるのだろう。
大学生になった時、ついにわたしは一人行動をしていてもおかしな目で見られない、とわくわくした。わたしは新しい環境に飛び込むことも好きだった。新しい友達。新しい集団。新しい景色。また新しい自分から始めることができるというのは何にも変えられない喜びだった。友達と過ごす時間も楽しかったけれど、常に誰かがいないとどこにも行けない、何もできないというのは不便なことで、一人で買い物をしたり、食事をしたり、部屋で一人過ごす時間もわたしには楽しくて充実した時間だった。人から見て幸せそうには映らないだろうし、わたしはわたしでやっぱり欲深くて幸せを感じにくい性分だから、所謂幸せではないのかもしれない。だけど、そんなわたしを見て、まるで「わたしのため」であるかのように人生のアドバイスをしてくる人に、とくに職場で会うと、吐き気がする。「結婚したくないの?」「今の会社で本当に満足してるの?」「なんで東京に住んでるの?」そんなのどうだっていいじゃない。おまえはわたしにとってはただの同僚。同じ会社で働く、ただの人。だいたいは飲みの場だったり、仕事で同行したときの会話からこういう話になっていく。うるさいうるさいうるさい。好きにさせろ。わたしをお前の思う幸せの形に当てはめるな。それにはまっていなければ、アドバイスして近づけてあげようだなんて思うな。お前の発言でわたしの人生をどうこう変えられると勘違いするな。「よかれと思って」「悪気はなかったんだよ」「仲良くしたいんだよ」だったらなんなんだ。悪意がなければ、本気でわたしのためを思っていれば、不器用にもわたしと近づこうとしたから・・だとしたら一体なんなんだ。どんな考えでいようとわたしが不快になった、以上、なんですが。わたしには嫌な気持ちになる資格がある。あなたにもある。でも相手の感情を決めつけたり、相手の感情をよくないものだと本人に言う資格はない。いや資格はあるのか。であればそれを拒否する資格だってある。とにかくわたしのあらゆる権利を侵害しないで、ただそこにいてくれたらいいから、わたしの人生に一切のコメントをするな。と思ったら、ああわたしはこの人たちに解釈さえされたくないんだ、と思った。会社の人間が嫌いだ。もう潮時かな。

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