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弱肉強食な世界に抗う

この世界はたしかに弱肉強食。そういうもの。でも、それに抗う自由は全員にあって、自分に突きつけられた現実にNOと意思表示する自由は誰にだってある。それをすることによってさらに傷つけられることもあるでしょう。できることなら、そんな仕返しは絶対に受けないとわかった状態で、安全圏から主張していたい。でもそんなのはきっと無理だ。わたしが自由ということは即ち、前の前の相手も自由だからだ。自分だけに自由が与えられているなんてことはない。もしそう思っているのだとしたら、あなたは自分と相手の間に明らかな序列があることを認めていることになる。人間はみんな対等だと思っている。だけど、わたしは博愛主義ではない。皆を愛することはできないし、やっぱりわたしにとって大切な人のことは特別扱いします。わたしはそれが愛だと思っているから。目の前にわたしの大切な人と知らない人が溺れていたら、迷わず大切な人を助ける。その後になってからようやくもう一人の知らない人を助けようとはできる。助けられなかったのなら心は痛めるかもしれないけど、自分の行動を後悔することは絶対にしない。わたしは大切な人だけが優先だから、それが愛だから。選択しないといけないのなら迷わず相手を選ぶこと、それがわたしにとっての愛するということだから。

大好きな漫画家の先生が亡くなりました。本当に悲しいです。こういうとき、どこまでその人に興味を持っていたら大好きと名乗っていいのか、と一瞬考えてしまうことがあるんだけど、でもやっぱり大好きと言わせてもらいます。芦原妃名子先生の漫画はすべて読んできたわけではないけど、なんせ世代なので、「砂時計」はもちろん読んでいる。本当にみんな読んでた。わたしの世代の人なら大体みんなが共有できるもの。人と共感しあったり何かを共有できる時間って何物にも変え難くあたたかくて、世界とつながれた気がするし、自分が大きな組織に属する一人なんだって、一人じゃないんだって、すこし孤独を解消させてくれるんだ。漫画とか小説を読むというのは、一人で本や自分自身に向き合い孤独の喜びの時間を与えてくれると同時に、そこからいろんな人とつながる世界を作ってくれるツールでもある。「砂時計」は、そんな、わたしが内にも外にも生きる世界を広げてくれた作品でした。こんなことを芦原先生が亡くなってからようやく表明するような自分の浅はかさが申し訳ないけれど、でも今どうしても言いたいから、身勝手ながらこうやって書かせてもらいます。いちばん好きなのは「Bread&Butter」だけど、今はあまり元気がないので、また別で記事にして書きたいと思っています。

優しい世界になってほしい、という言い方には違和感があって、たぶんそうは思っていない。もちろん、優しい人が多いと安心するし、敵が少ないことで得られる安心感はたしかに心地よいかもしれない。でも、その優しい世界が誰かの我慢のもとになりたったものだとすると、いつか溜まりに溜まった鬱憤が爆発する瞬間が来る気がして、時限爆弾を抱えているようであまり健全だと思えない。まあ、これは完全に「進撃の巨人」を読んだからこそ感じることですけど。みんなが対等で序列がない、というのも、なんだか共産主義っぽくて共感できない。やっぱり何かにおいて抜きん出てる人はいるし、そういうのを押し付けてまで実現する「平等」には興味がないので。どうしたらいいんだろうな。死ぬまでこれを考えたとして答えは出ないかもしれないし、もう一度言うけど、わたしは博愛主義ではないので世界のみんなとか、本音ではどうでもいいです。誰かに不幸があれば心を痛めるかもしれないけど、世界を変えてやる!というほどのエネルギーは、知らない誰かをきっかけには生まれない。ぶっちゃけ、わたしとわたしの好きな人がちょっといい思いをできる世界なら、それがいちばんいいなと思っています。でも、仮にそれが実現されたとしたら、いつかそれを壊しに来る人が出てくるかもしれない、とは覚悟するよ。撃っていいのは撃たれる覚悟のあるやつだけだ、って、なんかの台詞でありましたね。それがこういうことを意味するのかわかっていないけど、自分が手に入れたものは誰かも手に入れるかもしれないし、抗う自由も全員にあるということを忘れたくない。そんなことを考えさせられました。

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