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灰色の領域

自分のことを知ってほしいのに、でもやっぱり自分の内面を見られるのは怖くもある。
居場所がほしいのに、どこにも所属しない自由の身でもありたい。
何者かになりたいのに、自分が何どういう人間なのか、どこに括られるのかが決まってしまうのは嫌だ。
わたしはなんて欲張りでいいとこどりばかりしようとしているんだと思うけど、でも、それがわたしだ。誰にも迷惑かけずに(実はにじみ出ててどこかに迷惑かけてるようだったらすみません)ひとりで悶々としている分には自由だと言ってほしい。
白か黒かはっきりするのが怖くて、灰色の領域に浸かっていたくて、そのくせしてその不安定さも怖い。だから灰色の部分にずっと滞在するのではなく、白の方に行ったり、次の日は黒に移動してみたり、その時々で場所を変えていたい。それなのに、どっちつかずの自分は一体何かしたいのか自分でも掴めなくて、自分の気持ちがはっきりしていないようで、なんかダサいから嫌だ。でも、これからずっと白!ずっと黒!っていうのもやめたい。主義主張がすぐ変わるけど、その時言ってることは全部全部本音なんだよ。自分にそれを許したとして他人は許せないかもしれない。今日と明日で言うことが変わる人なんて信用できないもんね。でも、人からの信用を失ってでもゆらゆらと放浪していたい。とか言いながら、本当に自分の本拠地をあちらこちらと変えるのは不安だったりする。いつでも帰られるあったかいおうちがあって、たまに放浪させてほしい・・って、それはもう結婚という安定感と信頼感も欲しいけどまだまだ遊びたいと言ってるようなものじゃないか。でもその環境がいくらでも許されるなら最高なのかも。クズって言われても仕方ないけど、誰かを傷つけてしまったり、自分が不利益を被ったとして、そのことに責任をとれる自分ではありたい。責任取るから何してもいいわけじゃないのはわかるんだけど。でもせめて好き勝手やるなら責任は取るという姿勢でありたい。でもそんな人、わたしなら一緒になりたくないな。いつとんでもないことを言い出すかと不安になりそう。わたしもあの人も、きっと無防備に寝ていても自分の立場や資産なんかを守ってくれる、理想のお父さんお母さんを欲しがっていたりするのかな。この人を傷つけたくないと思いながらも相手を傷つけることはあるし、それに、誰かを大事にしたい、守りたい、とかいう気持ちに一番守られているのはわたし自身なのかもしれない。自分は人を大切に想えてとても善良なんだと感じられる。自分にもそういう部分があったんだとうれしくなる。人を愛するというのは周り回って自分を愛するということなのかもしれないね。作家の平野啓一郎さんもそのようなことを言っていたし。自己肯定感を高めようなんて簡単に言うけどさ、たまに、だめな自分もなんかかわいいなあって思えるくらいでほんとは全然いい。たまに自分のこと好きだって思えるならなんでもいいな。みなさん、苦しくも可愛げのある世界を明日も生きていきましょう。


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