十二人の怒れる男の話をしよう

 話をしようとか言っといて別にただの感想だけどな
 まあ~~~~~~~~~~~~面白かったですね………今までみてきた映画の中で私はダントツで面白かったです。もっと早くみりゃあよかった

 狭い部屋で特別な善人でも特別な悪人でもないド一般人が十二人、120分間机囲んで侃々諤々するだけの映画なわけだけども、まあこれがおもしれえのなんのって。
 まだみてない人はこんな映画ファンでもなんでもない素人のクソみたいな文章で脳が汚れる前に映画みてきたほうがいい。マジでな。アマプラでレンタルできっからよ!私はDVD買うけどな。でもフォロワーみんな映画好きだから多分みてると思う なんたって名作だ。

以下バキバキのネタバレ

 18歳のスラム育ちの少年は、本当に父親を殺したのだろうか?
 最初の構造は「有罪である」と言う11人vs「無罪かもしれない」という主人公1人。主人公側を「味方」とするなら対立する11人は「敵」であるはずで、普通なら我々観客は主人公(それがヒーローであるにせよヴィランであるにせよ)の「味方」の視点のはずなんだけど、提示される条件を並べてみれば「おいおい、それで無罪ってのは無理筋でしょ!」ってなもんで、おまけに「敵」の11人は悪人でもなんでもなく、我々の多くと同じ、ごく普通の男達。彼らがちゃんと証拠を見て、あくまでも公平に、有罪のジャッジを下している。映画がすすめば「そう言えばあれって…」ってそれぞれだけが気付いていたこととかも出てくるんだけども、それは全員で共有されていたものではなく、個人がたまたま見ていたものにすぎないから、主人公含めた12人と観客って問題に対してはほとんど同じ立場、同じ条件なんだよな。だからどっちかっていうと主人公1人vsその他12人(内俺1人)って感じ。俺も仲間に入れてくれよ~

 で主人公8番陪審員が裁判で出された証拠品や証言に対する反論っちゅーか疑問点を述べ始めるんだけど、それにしたって最初の一発だけじゃ11人だけじゃなくて見てる私も「いや、そうは言ったって…」って空気、だって証拠いっぱいあるし。証人がいるし。お前の言ってることってたまたまじゃん!その一個がたまたまお前の言った通りだったとしてそれがなによ?みたいな。
 そこからの「確かにそうかもな」「それも言われてみりゃそうだな」の畳みかけと、それに応じて「いやいや、有罪っしょ」「有罪だと思うけど…」「あれ、これ有罪か?」ってなってく流れ、これを11人と私が丁寧に共有していく感じ、これが大変楽しい。11人のうち1人が無罪「かもしれない」と言い、それが2人3人と増えていく、半分半分になって、いよいよこりゃわからんぞ、となってくる。

 とは言え現実世界と同じく頑なな奴は頑なで、こんなのもう理屈じゃ無理でしょ、って思うんだけど、それをひっくり返すやり方もまた面白い。

 この映画に特別な悪人はいないと私はいったけども、あの差別主義者の男は、一見して悪人に見えるかもしれない。でも彼はみんなに背中を向けられたこと自体がショックだったというよりは、熱くなって言語化した自分の本心、つまり差別意識のあまりの強さ、その悪辣さに気が付いて打ちのめされたように見える。「だって、あいつらって”実際に”ヤな奴多いじゃん、治安悪いし犯罪者多いしみんなすぐ嘘吐くし、だからこれは差別と言われりゃ差別かもしれんが、それって合理的な区別でしょ?」と、思っていたけど、いざ口に出してみれば、同じ人間に対して人間じゃないだの生まれついての嘘吐きだの、自分はなんてことを言ってるんだろう、神の前で同じことが言えるのか?っていう反応。あのシーンもよかったよなあ。
 家が基督教だから、私も人間に対して強い悪意を持って心の中で誰かを罵ったとき、ふと「神の前で同じことが言えるのか?」と思って怖ろしくなることがある。これは敬虔かどうか、本心で神の存在を信じているかどうかって話というよりは、この場合の神ってのは自分自身の一番純粋な良心、道徳心なんだろうな。人間が神の怒りを恐れるというよりは、自分の中の良心が、自分の中の悪意を目にして、そのあまりの醜さにおののくというのが、ああいう瞬間の心の動きを言語化すれば、近いように思う。男は自分の中の悪意と良心のためにうなだれてしまったんだな。別に基督教じゃなくたってみんなきっとある程度理解できる気持ちだろう。

 で、さらに話は進み、メンバーで最も頑なな、マッチョイズムの男は明らかに不利な形成の中でも有罪を主張し続ける。彼のスタンスは映画の早い段階で明言される。「男に敗北は許されない」。これが一貫した彼の信念。
 彼にとってはもはや少年が有罪か無罪かなんてのはどうでもよくて、ただ「無罪」と認めることは彼にとって「敗北」を認めることと同義で、ただそれが許せないがためだけに、傍目から見れば馬鹿馬鹿しいとしか思えない意地を張り続けている。
 そんな男が、最後の最後で自分と縁を切った息子の写真を見て、机に突っ伏して「無罪だ、無罪だよ」とむせび泣く。私なんかが今更どうこういうのもおこがましいような名シーンだと思う。
 彼の病的な頑なさ、彼の言うところの男らしさ(男にとってより重要なのは善悪ではなく勝ち負けであり、男は何があっても敗北を認めてはならないという信念)のために、彼の息子は父と縁を切ったのであろうことは容易に想像がつく。そのせいで、マッチョイズムに囚われた男は余計に頑なであることをやめるわけにはいかなくなってしまった。息子が去ったからといって頑なであることをやめてしまっては、それは彼と息子の勝負において「敗北」であり、敗北に末に残るのは、家族に比べりゃなんてほどのもんでもない信念なんてもののせいで、愛する息子に愛想を尽かされてしまった、愚かで哀れな父親だけだからだ。息子を失って自分がとてつもなく悲しいということを認めなきゃいけなくなるからだ。彼に最後に起こったことはまさにそれで、彼は少年が無罪であることを認めると同時に、自分が悲しいことをついに認めたわけだよな。書きながらちょっと泣けてきちゃった。
 先述の差別主義者のくだりもそうだけど、論理で進む映画の中だからこそ、人間の心の匂いがするシーンが胸に迫る。

 とはいえ実際に少年が本当に無罪だったのかはこの映画では明らかにされない。もちろん真犯人なんてわかりゃしない。十二人は120分ののち、少年を無罪だと判断したけど、それが本当に正しいかどうかは誰にもわからない。作中で主人公が言ったように、殺人犯を野放しにする助けをしてしまったのかもしれない。あるいは、陪審員が無罪と判断したからと言って、金も無けりゃ教育もろくに受けてないグレたスラムのガキなんて、裁判でまたあっさり有罪食らって電気椅子かもしれない。そういうところも、なんだか妙に乾いた感じがしていい塩梅だった。どうでもいいけどアメリカって今も電気椅子なのかね?子供のころにテレビでグリーンマイルみて以来トラウマなんだよな。
 この「本当に彼らの言ったとおりだったのかは誰にもわからない」の感じは二週間ほど前に見たヒッチコックの裏窓とも通ずるもんがある。あれも面白かったな!

 なんか思ったよりぐだぐだ書いてしまったけど、とにかくすっげ~面白かったよって思いました!


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