日蓮が末法に法華経を広めるべきと考えた理由

日蓮は鎌倉時代に法華経の教えを広めた人物として有名です。

しかし、日蓮が数ある経典の中でも法華経だけを特別視し、これを広めるべき教えとして選んだ理由については、意識される機会が少ないように思います。そこで今回は、日蓮が法華経を特別視した理由について、末法思想および当時の社会情勢という観点から考察したいと思います。

まず、よくある誤解として「日蓮は法華経以外の経典を誤りであると考えた」というものがあります。これは正確ではなく、「日蓮は法華経も法華経以外の経典もすべて正しい釈尊の金言であると考えた」という見方がより正確です。その上で、日蓮は「法華経こそが末法に流布するのに最もふさわしい経典である」と考えました。

では、なぜ末法に流布するのにふさわしい経典が法華経であると日蓮は考えたのでしょうか?その疑問に答える前に、「末法」および「末法思想」とは何かということについて確認したいと思います。

まず、「末法」という概念の出典となっているのは、大集経という経典の次の文です。

「我が滅後に於て五百年の中は解脱堅固、次の五百年は禅定堅固、次の五百年は読誦多聞堅固、次の五百年は多造塔寺堅固、次の五百年は我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」

噛み砕くと、「私(釈迦)の死後2000年間は何らかの形で正しい教えが残るけど、2000年~2500年の間に仏教徒の間で論争が起こって、何が正しい教えなのか分からなくなってしまうよ」ということを言っています。

この釈迦の死後2000年以降を「末法」と捉え、「この時代が来ると仏教の教えは役に立たなくなり人も世も最悪の状態になってしまう!ヤバい!」と考えるのが末法思想です。

日本で末法思想が流行したのは平安時代末期からで、この頃は貴族の政治が衰えるとともに、武士が台頭しつつあり、治安の乱れが激しく、民衆の不安が増大している時代でした。鎌倉時代には初の武家政権が誕生しますが、社会不安は依然として続いており、末法思想は人々から広く受け入れられていました。そして、日蓮もまた自分が生きる時代を末法であると捉え、彼独自の教えを展開しています。

日蓮は末法について、次のように述べています。
「今、末法に入って二百余歳、大集経の『我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん』の時にあたれり。(撰時抄)」「一向に末法の初めをもって(法華経の)正機となす。(開目抄)」

つまり、「正しい教えが何なのか分からなくなってしまう末法という時代に生きる我々にこそ、法華経はふさわしい教えである」と主張しています。

さて、ここで法華経が説く思想の内容に目を移してみましょう。

法華経の中心的な思想として「一乗真実・三乗方便」というものがあります。これは「仏の教えは元々一つ(一乗真実)であるが、人々の理解能力に応じて様々な説き方(三乗方便)がなされた」という考え方です。
仏教の有名な説話でいえば、「筏(いかだ)のたとえ」や「キサーゴータミーの逸話」にも通じる考え方だと思います。

つまり、法華経は「仏教における法華経以外の様々な教えを包括し、体系立てる」という性格の強い経典であると言えるでしょう。

この意識は、天台宗の祖師である天台大師(智顗)にもあり、天台大師は法華経を中心として様々な仏教経典の教えを体系的に整理する教相判釈を行いました。

そして日蓮もまた、天台大師の教相判釈をもとに彼独自の思想を発展させていきます。日蓮は『開目抄』において、当時知られていたあらゆる思想(儒教、老荘思想、仏教以外のインド思想…etc.)を列挙した上で、これらがいずれも法華経を中心として体系立てられるという主張をしました。

日蓮は幕府に『立正安国論』を提出し、法華経によって社会の安定がもたらされること(=立正安国)を説きました。その意図は、何が正しくて何が正しくないか人々が迷い、それによる争いが絶えない末法という時代にあって、物事を正しく見抜くための判断基準を政治に導入することにあったと思われます。

平安時代までは、王族や貴族がいわば絶対的な権威であり、ある意味で人々はそれらに従ってさえいれば安泰が保証されていたと言えるでしょう。しかし、平安時代の後期から鎌倉時代の始まりにかけて、こうした権威が揺らいだことをきっかけに、人々は「何が正しくて何が間違っているのか」を改めて考え直す必要に迫られました。

日蓮は為政者のみならず、商人・農民など、あらゆる身分の人々に教えを広めています。このことは、為政者だけでなく、あらゆる人々にとって物事を正しく見極めることが重要であり、それこそが立正安国への道にほかならないと彼が信じたからではないでしょうか。

『開目抄』のタイトルにある「目を開く」という表現も、このことを言っているような気がします。

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