ポストモダンの次:ナラティブの復権が神学に持つ意味

ある授業で、「ポストモダン」という言葉が出てきて(言葉だけです)、私が「あれっ、ポストモダンって、もう終わってたよね」と思ったのがきっかけで考えたこと。

ポストモダンは、それまでの啓蒙主義的な価値観、進歩主義的な価値観、さらにはそういった概念の尖がったものとしての推物史観(マルクス主義)と、そういったことへの2回の大戦とその後の冷戦を踏まえて、生まれたものだと理解をしています。

しかし、結果として残ったのは、私から見ると

Too much な価値平等主義(宗教多元論を生まなければ、知的に誠実じゃないという価値観)
てんでバラバラな自分語り
袋小路に入ってしまった現代美術・音楽・詩
タコつぼを掘り続ける自己満足の研究(理系・文系問わず)

じゃないかなあと。
アメリカの西海岸リベラルや日本の立憲民主党の退潮も、ポストモダン的思考の終焉からでも理解が出来るんじゃないかと思います。

それに対して、ナラティブという言葉が復権し始めています。
ここで、二つナラティブという言葉で論点があります。

1)ナラティブが成立するのは非常に難しい。
ナラティブとは、物語を語る人と聞く人との相互作用が必要なものです。一方的に語るだけであれば、それはストーリーテリングであり、ナラティブではありません。個別のストーリーテリングは、ポストモダン的な自分語りを抜け出せていません。
この語る人と聞く人との相互作用まで生まれるナラティブは、今、何があるのでしょうか?
「物語る神学」という事を仰っている神学者がいます。正しい表現だと思いますが、この「物語る」ということは、教会と教会を取り巻く外部環境、すなわち社会・公共との関係性の定義、具体的な働きを伴うはずです。
ブランディングの仕事を、それも本質からの仕事をしているならば、ストーリーテリングとナラティブの違いは、理解しやすいです。でも、そうでも無いと、この相互作用の有無での違いというのを、観念的な理解だけではなくて、現実の行動・出来事として理解をするのは、ハードルが高いかもしれませんね。

2)色々なナラティブが並列するわけではない
ナラティブというのは、聞く人との相互作用が必要です。ということは、そのさらに周囲の人・環境の巻き込みを生んでいくものです。
ということは、何かが、「大きな物語」になっていく可能性があるということです。勿論、リオタールが語った「大きな物語」とは、少し異なる影響力でしょうが、それでも、破片のように、多くのナラティブが併存するという風景では無いはずです。
そして、どのナラティブが、「大きな物語」になっていくのか、まだわかりません。

こういった時代認識の元に、聖書のナラティブを語る、というのが、我々の役割なのかと。
 聖書のナラティブ:聖書を大きく捉えるだけでなく、聖書に基づいて教会(有機体、制度的)が、どのように聞き手=公共と関係を紡いでいくか。具体的で・現実的でありえるか。

ここまでを、稲垣先生にメールしたら、20年前に書いた文章が、該当するかもしれない、と言われました。
A.E.マクグラスの日本講演をまとめた「ポスト・モダン 世界のキリスト教」という書籍の後書きです。

読みました。

マクグラスの問題意識:
神学って、「学問」であり、公共的論争の場にさらされるべきものである、そのプロセスを経て再生する、と。
 →これは、マクグラスの他の書籍を読んでいても感じます。

先は長いですが、頑張ろう。

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