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演技と驚き◇Wonder of Acting #20

タイトル画像:「ドレスデン絵文書」
演技を記憶、するマガジン [August 2021]

00.今月の作品役名演者インデックス

『茜色に焼かれる』田中良子:尾野真千子、ケイ:片山友希/『おかえりモネ』永浦百音:清原果耶/『夫婦の世界』ヨ・ダギョン・『わかっていても』ユ・ナビ:ハン・ソヒ/『義経千本桜ー河連法眼館の場(四の切)』佐藤忠信・源九郎狐:中村又五郎/踊りと演技/『ハッピーアワー』濱口竜介『寝ても覚めても』丸子亮平・鳥居麦:東出昌大『ドライブ・マイ・カー』家福悠介:西島秀俊/『初めて恋をした日に読む話』由利匡平『きみの瞳が問いかけている』篠崎塁:横浜流星/『ヴェノム』カールトン・ドレイク、ライオット『サウンド・オブ・メタル 聞こえるということ~』ルーベン・ストーン:リズ・アーメッド/国立文楽劇場『夏祭浪花鑑』六代目竹本織太夫/『僕のヒーローアカデミア THE MOVIE ワールド ヒーローズ ミッション』ロディ・ソウル:吉沢亮/加藤茶/『プロミス・シンデレラ』片岡壱成:眞栄田郷敦/『桜嵐記』楠木正行:珠城 りょう、『Dream Chaser』/『あの夏、いちばん静かな海。』茂:真木蔵人、貴子:大島弘子/『上海ルージュ』小金宝(シャオ・チンパオ):鞏俐(コン・リー)/『劇場』沙希:松岡茉優『万引き家族』柴田信代:安藤サクラ/

01.今月の演技をめぐる言葉

ー このマガジンのメインコンテンツです。毎月、編集人が見つけた、演技に触れた驚きを引用・記録しています(※俳優等の画像のある記事は、文章のみ引用して、オリジナルエントリーにリンクを張っています)。

背骨 † @sebone_returns 元ツイート>
濱口竜介監督がどのような演技を好むか、どのような演出をしているのかは『ハッピーアワー』での濱口竜介監督自身の演技を見るとよくわかる。そして彼がなぜ東出昌大、西島秀俊をキャスティングするのかも…
#映画監督が出演している映画
地球生まれのエイリアン @umarealien 元ツイート>
『ヴェノム』でリズ・アーメッドが気になった方は『サウンド・オブ・メタル 〜聞こえるということ〜』を見てほしい。彼の演技は圧巻ですよ。
鮫順 @tensame 元ツイート>
加藤茶の二度見は芸術。加トちゃんの二度見芝居は凄過ぎる。

引用させていただいた皆様ありがとうございます。

02.雲水さんの今様歌舞伎旅(ときどき寄り道) 第十回:客席までが舞台である、ということ ~箕山 雲水

だから日本の文化はおもしろい!おもわずそう叫びそうになった。

ひさしぶりの東京宝塚劇場。8月前半は月組の、トップスター・珠城りょうさんのサヨナラ公演が行われていた(宝塚歌劇では退団公演のことをサヨナラ公演と呼ぶ)。『桜嵐記(おうらんき)』と『Dream Chaser』の二本立てで、本来は今年2月に上演されるはずが例の流行病のせいで延期されて8月になり、おかげで今回観ることができた。特に『桜嵐記(おうらんき)』は話題の演出家・上田久美子さんの演出で、今回の評判も「さすがウエクミ作品!」などとさまざまなところから聞こえてきていたからとても楽しみにしていた。さすがにサヨナラ公演。開幕前から客席はなんともいえない高揚感にあふれ、物語が後半に進むにしたがってすすり泣きの声があちらからもこちらからも聞こえるように。大喝采のうちに幕がおりた。

休憩をはさんで、次は『Dream Chaser』が上演される。これはショーとかレビューとかいわれるジャンルの作品で、セリフより歌やダンスを中心に構成されるものだ。こちらはさほど情報が届いていなかったこともあり、前評判も前知識も何もなく客席に座った。幕があく。プロローグが始まる。何度も何度も見たはずの、宝塚歌劇の王道とも言える構成のプロローグ。華やかなそのプロローグを観ているうちに、なぜか涙があふれてきた。

スターが登場し、その顔にスポットライトがあたる。銀橋(オーケストラピットと客席の間に設えられた細いエプロンステージ)に足がかかる。歌が盛り上がり、そして終わる。そういった場面で当たり前のように拍手が出、曲にあわせて手拍子が起こり、次のきっかけがはじまればすっとおさまる。普通であれば感動を伝えるための手段であるはずの拍手が、客席側の主張ではなくまるで演出の一部のように存在し、観客もそれを楽しんでいるのだ。それも、誰かが煽っているとか仕込みであるとかそういった違和感はどこにもなく、当たり前に一連の拍手が起こる。その瞬間、私たちは客席に座っていながら舞台を創る一人であるかのような気持ちになる。日常でどれだけ爪弾きにされていようが嫌われ者であろうが、弾かれることなく一員になれる。
宝塚歌劇の魅力といえば、華やかさや男役の格好よさ、娘役の可憐さなどに目がいきがちであるが、この、客席にいる人まで皆が一体となって舞台を創り上げる感覚、その仕掛けが仕込まれていることこそがなによりの魅力なのではないか。そしてこれはおそらく、日本の舞台芸術の中で重要な意味を持って存在しつづけてきたものなのだ。だから、舞台と垂直の花道があり、大向こうがかかり、そういった「いわゆる演劇の文脈で考えると奇異とすら思える状態」が平気で現出する。それが日本の舞台の魅力なのだ。だからこそ、生で、客席で観ることに意味があるのだ。

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この1年、流行病に感染する危険を冒してまで生の舞台をやる必要があるのか、観に行く必要があるのかと始終、そんな悩みが片隅にあった。その一方で、劇場で舞台を観るたびに、普段の何十倍、何百倍の感動を味わい、やっぱり生で観たい、やっぱり劇場で、客席で観たいと思い続けてきた。そのひとつの答えを、今回の『Dream Chaser』は教えてくれたように思う

『Dream Chaser』の一場面で、まさに今、この状況に翻弄される私たち、そして何より舞台上の人たちのことを描いたようなシーンがあり、胸が詰まった。夢だの希望だの言っていられない日々が続き、その意味が見いだせなくなり、たくさんの人が舞台をあきらめていった(どの業界も同じなのは当然だが)。でも、やはり私たちには舞台が、芸術が必要なのだ。どうか早くこの流行病がおさまり、おもいきり芸術に親しめる日が戻りますように。また、この状況でもなんとか希望になればと奮闘してくださっている皆さんが、無事に公演を続けていけますように。さ、私も前を向こう。 ††

03.[寄稿] 演技の際(きわ)はどこに 短期集中連載「演技を遠足」について ~easygoa46

pulpoficctionさん(以下pulpoさん)の「演技を遠足」(『演技と驚き』18号、19号に連載中)はとてもユニークな演技論で、「唖然とするほどの棒読み」(18号)に演技の本質を見出そうとしています。

演技と演技でないものの限界面=際(きわ)を見極める。しかも観客の側から見極める。こういう際の見極め(本質論)、ぼくも好きです。「間違っている」かもしれないが、ギリギリを攻めてみる。とても大切なことです。しかも観客の側からという発想は難しい挑戦。というのも、たいていの演技論は演者側や演出側から作られているから(だよね)。観客の一人として自分の感動を軸にどこまでいくか。pulpoさんの演技論を読んで、突然料理について考え始めた。

pulpoさんの試みは料理論に似ている。野苺は美味しいけど、料理ではない。栽培された苺も美味しいけど料理ではない(ここまでいいんじゃないか)。ミシュランは焼肉屋には星をつけない。焼肉は客が焼くから。ここがミシュランの料理と料理でないものの際(賛否はあるかもしれないけど、面白い)。子どもがぎゅっと握ったご飯を「おにぎり」といって誰かに差し出したものは料理ではないような気がするけど、子どもが教えてもらって握ったご飯はおにぎりだと思う。猿酒(さるざけ)はどうだろう(白土三平さんのマンガで知った)。猿が木のウロに貯めた果実が発酵して酒になるらしい。料理ではない感じがする(飲んでみたいけど)。

人為が介在することが、料理と料理ではないものの際が生まれる感じもするけど、苺栽培も人為だから、それだけでは物足りない。子どもの「おにぎり」のケースも微妙な問題。ミシュランの場合は、すべて料理人がコントロールしてなければならない。けれども、韓国人や日本人は焼肉を「料理ではない」といわないだろう。ぼくらは人為の介在を料理に必要な条件と考えても、すべて料理人がコントロールしなければならない、という発想はない。薬味を使って自分好みに味を調えるのは日本では日常的な風景だし、客がお好み焼きを焼くのも普通。お好み焼きを「料理にあらず」と言ったら、東海道戦争がおきます。それくらい際を見極める作業は繊細です。

さらにうまくても料理だし、まずくても料理。料理はまずいものも目指してないけど、まずい料理も料理なんですよ!だからうまいまずいには料理の本質は現れない。おそらく演技の本質もうまいまずいには現れない。これがpulpoさんの演技論の始まり。うまい演技を観て「これが演技だ!」と評価すると、演技の本質は隠れてしまう。演技の「うまさ」を観てしまうから。それは演技の一部であり、演技の本質ではない。こう考えると、多くの役者や演出家は演技の「うまさ」を追求していて、演技の本質は追及していないように思える。たいていの観客も演技の「うまさ」にうなる。pulpoさんが『スケバン刑事』の「唖然とするほどの棒読み」に「号泣」するのも(第18号)、「演技がうまさ」ではなくて、むしろ「棒読み」=「演技のまずさ」故に、演技そのものがむき出しに現れたことへの感動だったのでしょう。

一部の演出家は「大根役者」「新人」「素人」をキャスティングしたがる。例えば北野武監督。初期の代表作『あの夏いちばん静かな海』で主人公を演じる真木蔵人さんのセリフはない。ヒロインの大島弘子さんもかなり棒読み気味のセリフ。二人とも「新人」。役者は決してうまいわけではない。でも、剥き出しの演技が現れている感じ。二人の役者が、決してうまくはないけれども素敵な演技で観客の気持ちをつかんだ。そこには演技そのものがもつ吸引力としかいえないものが現れていたと思う。

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北野監督やpulpoさんのような「眼」をもつ人々の考えは、あまり演技論としてきちんとした場所が与えられていないようだ(あったらごめんなさい)。ましてや観客の立場となれば。おそらくまずい演技も歓迎するのは、その役者の熱狂的なファンだけだろう。でもそれは演技を歓迎しているのではなくて、役者を歓迎しているファン心理だと思う。

第2回目の連載(第19号)では、「受け手の心の中で「演技」という像を結ばせるものは、いったい何なのか」とpulpoさんはいう。それは清濁を呑み込み、三ツ星料理とぼくの作る豚汁を分け隔てなく「これぞ料理」と楽しむ姿勢。おいしい野苺よりも、ぼくの作るおでんに料理として感動する心(おでんが料理か諸説ありそう)。

640px-おでん_(48873915598)

多分、演技と料理が違うとすれば、演出家の存在の有無ではないか。演技には本質的に演出家はいらない。もう少し踏み込めば、演出家は演技の立ち現れを複雑にしてしまう。役者が自己演出するところに、演技の本質は立ち現れる。「セリフの棒読み」は、下手さ故に演出家が届かない領域、演技の本質に到達してしまうのではないだろうか。それは下手でも上手くても構わない。pulpoさんの親しんできた能、雲水さんがこよなく愛する歌舞伎。どちらも演出は役者がうけもつ。その世界は自己演出の領域に限りなく開けている。こんな暫定的な結論で突然終わります。

ということでpulpoさん、ぼくの豚汁を召し上がる際は薬味なしでお願いします。料理の本質が立ち現れなくなるので。料理の本質はうまいまずいではありません(ミシュランの基準も意外とそんなことのようにおもえてきた)。†††

04.雲水さんの今様歌舞伎旅(ときどき寄り道) 第十一回:大河のような「色」に流されて ~箕山 雲水

昔見た中国映画をひさしぶりに見たい、とタイトルも思い出せないその映画を探してインターネットの海を徘徊していた。赤、提灯、金持ちの娼婦、出家、それから…そんな断片で検索をしている中で何度も“チャン・イーモウ”の名前にぶつかる。チャン・イーモウ。『あの子を探して』のあの監督だ。学生時代、ポスターの少年の目が印象的で映画館に観に行き、子どもたちの描き方やあたたかいストーリーが気に入って、それからイーモウ作品や、他にも子どもたちが主人公の映画をよく見に行くことになった。多くの人が見る作品は見ないという天邪鬼な気質だから、流行った作品はすり抜けて『単騎、千里を走る。』を見に行ってそれが最後。そうか、見たかった映画はイーモウの作品だったのか、と思いはしたものの、検索の結果出てきていた肝心の『紅夢』は今、見られそうにない。しかたなく、候補の中で一番イメージが近そうな『上海ルージュ』のDVDを購入し、見始める(現在U-NEXTで配信中)。

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さすがイーモウ作品、色が綺麗だ。

そんなことを考えていられたのは束の間だった。その「色」が、主演のコン・リーの心情(と私は感じた)と見事に連動して物語を染めていき、静かなのに力強い大河の流れのようにこちらの感情を包み込んで驚くほど強い力で押し流していく。綺麗だとか美しいとか、たしかに美しいには違いないのだが、見た目のことだけを考えていられる余裕は一瞬でなくなっていた。

ことにあの、コン・リー演じる金宝が本来の自分を取り戻す瞬間。ナイトクラブの華やかなショーの歌姫は、上海マフィアの情婦でもある。それが、あるきっかけから自分は実は、とその素地を思い出す、その場面がおどろくほどやさしい、懐かしい色に包まれる。そこまでの、美しい色とは大きく異なる色。まるで自分自身がかつて、その色のついた景色の中にいたような気にすらなる。そして、あっという間に現実が懐かしさや本来の金宝を引き裂いていく。なぜ色で、ここまで芝居を引っ張れるのだろう。現実にはありえない色の変化を、どうやってイーモウ監督は生み出していくのだろう。そして最後に真っ逆さまの世界である。純粋で美しいとこちらが思っている召使いの子どもが、あの美しい目で見る世界が、ひっくり返る。

私たちは、何を現実と思い、何を現実と信じて生きているんだろう。目の前にあるこれは一体なんなんだろう。起こっている出来事以上に語る「色」に、心の内側が大きく大きく揺さぶられる。そこにあるのは哲学。その哲学を「色」で語っていく深さ…とんだ作品に出会ってしまった。「映画」とはなんと幅の広いジャンルなのだ!これは「人間」と括るのに等しいレベルの、ひとつの言葉におさまらない個性。なんという深さ。なんという果てしない底無し沼なんだろう。「色」に静かに引っ張られ、心を掻き回された上でひっくり返される経験をして、つくづくそう感じた。しかし、すさまじい作品に出会ったものである。

ちなみに、後日押し入れの奥から探していた映画のVHSが出てきて、イーモウ作品とは違ったことが判明する。こんなに盛り上がったのになんという結果…!しかし、こういう事故のような出来事があるからこそ、人生は面白い。さてまた、インターネットの海にでも漕ぎ出してみようか。 ††††

05.演技を散歩番外編。短期集中連載「演技を遠足」 最終稿:透明な演技、不随意の演技 ~pulpo ficcion

「テレビドラマは様々な用事や家事の合間にみるものだから、分かりやすさが尊ばれる。ドラマの中の演技も、一目見ればまたは一言聞けば、あ今、登場人物が怒りだしている、この後、きっと本格的な衝突となる。そのようにわかりやすく伝わるものが良いのだ」

こういう旨のツイートを読んだことがあります。もっとも後半は相当作文しましたが、大意そういうことが書かれていました。もちろん極論には違いない。しかし、演技に求められる大半のことは、これであると思います。

つまり、物語や登場人物の感情をプレゼンテーションする術としての演技です。もちろんそれがダメだと言いたいのでは全くありません。プレゼンテーションにもさまざまな目的があります。時間のない人に、とにかくオーバープレゼンテーションで情報を提示するものもあれば(この類の演技は基本的に苦手です)、大きなストーリーの流れの中にちょっとした機微をさりげなくおいていくようなものだってあるでしょう(映画『劇場』で髪をいじる松岡茉優のことを思い出しています)。

この短期集中連載の初回で書いた<大衆の源像における「演技」>とは、つまるところ、これのことだと思います。物語の中に住む人が、感情や人情や人となりを私たちのもとに届けてくれる。その時<演技>そのものが前面に浮上することはありません。いわば、演技は素通しになっている。こうして、私たちは登場人物たちの生き様や困難や喜びにじかに触れます。また、登場人物の手触りを、演ずる人間(俳優)自身の魅力として受け取ります。こうした作品のユーザーインターフェイスとしての演技のあり方を、透明な演技と呼んでみることにしましょう。そして私は、透明な演技に心ひかれつつ、演技のもう一方の現われについて語りたいのです。

さて、多分、ここから読みにくくなります。その覚悟のために少し長い引用をします。

不随意という概念を深くきわめてゆかねばならない。これは、被造物の被造性をもっとも根底において構成しているものに対する概念だと思われる。(略)不随意的なものであるということと、自分をなくてはならぬものとして感じたり判断したりするということと、この両者のあいだに結びつきがある。じっさい、この不随意性ということは、ある意味で自分自身に執着することと切り離せない。そしてここでいう自己執着は、自己愛といわれるものよりもさらに原初的で根源的なものなのである。
マルセル『存在と所有』「形而上学日記」(小泉義之『病いの哲学』からの孫引きです)

私たちは、私たちの身体を自由自在に操れているわけではありません。操っているようで、何かそこには、自意識とは別の、突然現れたとしか思えない<第一原因>がある。私の身体は、端的に私以外の何かによって駆動されている。私は私の身体の主人ではない。だからこそ、私たちは意識のレベル=自己愛で自分の身体をいつくしむだけでなく、根源的なこの「もどかしさ」と共に生きている。それこそが私たちの身体のかけがえのなさである。とそういうことが書かれています。

もともとこの引用は「病の身体」「死に瀕した身体」をそれ自体「生に満ちた身体」として顕彰する文脈で取り上げられていたものです(前掲、小泉義之『病いの哲学』)。その文脈でマルセルはさらにこう語ります。

私が諸事物を自由に処理することができるようにさせているその当のものを、私は現実に自由に処理することができないというところに、おそらく、不随意性ということの形而上学的神秘の本質が宿っている

ややこしい言い方です。ややこしいけれど、正確に書こうとするとこうなってしまうという哲学特有の言い回しです。「私が諸事物を自由に処理することができるようにさせているその当のもの」とはつまり身体のことです。それは心と切り離されたものではありません。自分自身も含めた身の回りの物、大きく言うと<この世界>に、固有の意志や嗜好をもって関与しようとするヒトの全体像をマルセルはこの言葉でもって言い表そうとしているのです。そして、その当のものこそ自分の思い通りにならないものなのです。半身不随、意識の失調、突然の尿意、ちょっとした感情の変調、思いもがけず出てしまった大声、話したかったはずなのに結局一言もしゃべることのできなかった苦い時間。

そう。演技の話です。これは、そのまま演技のこととして読めるのです。脚本にはセリフと動作が書かれています。さらに、それが自己の企図であろうと、第三者の望む演出であろうと、演者は一定の意図のもと演技を遂行しようとします。<演技すること>には表現者としての読解と技量と工夫が込められているのです。だから、十全に準備・訓練・覚悟された俳優は、まさに「諸事物を自由に処理することができるようにさせているその当のもの」なのです。

そして、現実には<そのもの>は自由に処理できない。不随意なものが、ままならない、当初思ってもいなかったものが、発現するからです。計算を「超える」というと少し違う。演技・演出プランを「損ねる」というのでもない。透明な演技の随意性(演技力)の傍らに、不随意の領域が突如出現する。その出来事を私は「演技と驚き」と呼びたいのです。

さて、概論としてはこれで、ほぼ言い尽くせました。

棒読みの身体は透明な演技というインターフェースそのものに対する<できなさ>として立ち現れていたから感動的なのです。踊りの激しさに息切らせた能楽者の立ち姿は、神能を全うする傍らにあふれでた不随意な身体だったからこそ、強く演技を感じさせたのです。

もちろん演じ手は、経験を積み、これら不随意な身体のさまも随意の領分に引き入れていくでしょう。例えば、芝居をやっている人には割と知られていると思いますが、舞台を踏み抜いたり、立ち位置を間違えたりするというのは、笑いとともに舞台と客席を近づける定番のクリシェです。思わず間違えた!という顔をして、そして、した途端に表情を押し殺して、ごく小さく苦笑しながら、そ知らぬふりで演技を続ける、それ自体が企図された一つのプランである。という技巧です(少なくとも4つの全く違う舞台で私はこれを観たことがあります)。

それは、演じ手として当然の貪欲です。このプランを採用するかどうかは別として、演技に対してこうした意図性(プランニング)を継続して持つことができないものはパーマネントな俳優・演じ手たりえないでしょう。

しかし、随意を極めようとする演じ手の思いや技量がどれほど強かろうと、<その当のもの>に不随意が降りてきます。誰のせいでもなく、付加あるいは除外されてしまった、主体を持たない<身体>の現われ。

最後に一つだけ、具体的な例をあげましょう。映画『万引き家族』の終盤、安藤サクラの見せた<涙(笑顔)>です。物語は荒唐無稽の少し手前のあたりにしつらえられています。疑似家族の日常と幸せと、そして必然的に訪れる破綻。「演技を散歩」の第三回で書きましたが、それはもはや日常的とは呼べない、つまりほとんどの人が一生体験することのない出来事です。その場所で振り返って語る信代(安藤サクラ)にとって何がリアルであり、どう演じることがリアリズムであるかなど、誰にも言うことができない。その想像のしえなさに安藤サクラは共演者やスタッフと誠心誠意取り組んだに違いありません。そして、本番テイク、その傍らにアウトオブコントロールがおとずれるのです。もはや、それが何を意味しているのかも定かではない複雑なようなシンプルなようなあの表情の美しさ!

演技は偶然ではありません。計算し、打ち合わせ、訓練した結果として生まれるものです。そこに不随意がおりてくる。透明と不随意の、いつまでも止揚することのない弁証のプロセスに沿って、観客たる私はどこまでも歩いていきたいのです。(短期集中連載了) †††††

06.こういう基準で言葉を選んでいます(といくつかのお願い)

舞台、アニメーション、映画、テレビ、配信、etc。メディアは問いません。人が<演技>を感じるもの全てが対象です。編集人が観ている/観ていない、共感できる/共感できないは問いません。熱い・鋭い・意義深い・好きすぎる、そんなチャームのある言葉を探しています。ほとんどがツイッターからの選択ですが、チラシやミニマガジン、ほっておくと消えてしまいそうな言葉を記録したいという方針です。

【引用中のスチルの扱い】引用文中に場面写真などの画像がある場合、直接引かず、文章のみを引用、リンクを張っています。ポスター、チラシや書影の場合は、直接引用しています。

【お願い1】タイトル画像を募集しています。>

【お願い2】自薦他薦関わらず、演技をめぐる言葉を募集しています。>

07.執筆者紹介

箕山 雲水 @tabi_no_soryo
兵庫県出身。音楽と時代劇、落語に浸って子ども時代をすごし、土地柄から宝塚歌劇を経由した結果、ミュージカルと映画とそして歌舞伎が三度の飯より好きな大人に育つ。最近はまった作品はともに歌舞伎座の2021年2月『袖萩祭文』、同3月『熊谷陣屋』、ミュージカルでは少し前になるが『7dolls』、『ナターシャ・ピエール・アンド・ザ・グレート・コメット・オブ・1812』、マイブームは日本舞踊。

easygoa46 @easygoa46
easygoa46と申します。演技はたしなむ程度で、小学生の謝恩会以来舞台にはたっていません。演技というよりも物語が好きで映画を観ていますが、市川崑監督の金田一耕助シリーズを繰り返し視聴します(三木のり平が特に絶品ですが、出演者はみんな好き)。『演技と驚き』を知った時、なぜか岸田秀『ものぐさ精神分析』を読んだワクワク感を思い出し、今に至ります。雲水さんの連載を毎回楽しみに読んでます(ファンレター)。

pulpo ficción @m_homma
「演技と驚き」編集人。若い頃に芝居していたせいで、多分演技への思い入れがけったいな風に育ってしまった。それはそれで仕方ないので自分の精神的圏域を少しでも広げたいとこのマガジンをつくった。今年は20年ぶりに芝居やってます。

08.編集後記

とにかく、こんなボリューミーになるとは想像していませんでした。二本あってどっちを書くか迷っているという言葉に軽く「両方のせますか?」と返したら、しっかりそれにこたえてくださった雲水さん。私の思いつくままの記事に素敵なふくらみを与えてくださったeasygoaさん。お二人に本当に感謝です。これくらいの量(あと欲を言えば、この倍くらいの「今月の言葉」)を続けられるといいのですが、ま無理せず続けます。あ、あと、編集上の工夫をいくつか加えました。てか、なぜ思いつかなかった自分!

では、次号は9/26発行です。暑さも疫病もおさまっておりますことを!

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