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演技と驚き◇Wonder of Acting #14

タイトル画像:運慶「無著菩薩立像」(wikimedia commons)
立像は心を持たない。観る人と像の間に感情が生まれる。
[ 演技を記憶するためのマガジン Feb.2021 ]

01.[連載] 雲水さんの今様歌舞伎旅(ときどき寄り道)

第三回:袖萩にうたれるーいま歌舞伎を見るということー 箕山 雲水

今月は他のことを書こうと思っていた。それなのに、予想もしないところから放たれた稲妻に打たれてしまった。歌舞伎座での二月大歌舞伎の第三部『奥州安達原-袖萩祭文-』だ。十七世中村勘三郎三十三回忌追善と銘打って行われた第三部だが、前宣伝はほとんど中村勘太郎丈が最年少で踊る『連獅子』の話題に終始していたし、そもそも地味な演目だから何度も見て飽きてしまったらどうしようかとすら考えながら、初日、中頃、そして千穐楽のチケットを手配していた。普段であればそんな経験はできない、ということを今のうちにしておこうという、そんな下心で。

この作品は、一人の女性が武士の家に生まれたゆえに起こる不幸の物語で『奥州安達原』という長い話の中のごく一部である。主人公の袖萩が盲目であるという設定がひとつ敷かれることですれ違いや葛藤の度合いが増す、そんな話である。袖萩をつとめる中村七之助丈をはじめベテランから子役まで、全員が真摯にこの舞台に挑んでいる気迫のようなものが客席全体を包み、また、七之助丈の袖萩の、振り絞るような泣きの芝居に心臓を鷲掴みにされるような思いがして、初日ですっかり虜になった。

ところが2回目、これはもう少し見ておかねばならないと追加した回は全くの空滑り。感動したなんて勘違いだ、初日の空気にやられてしまったのだと自分の浅はかさを恥じるほどだった。とにかく袖萩が一生懸命に「悲しい」を演じている。そんな感覚で、テンションが落ちてはあがり落ちてはあがりの繰り返し。引き摺られたのか安倍貞任を演じた中村勘九郎丈も空滑りして、いくらベテランの中村東蔵丈や中村歌六丈、子役の中村長三郎丈の芝居が良いと言っても何も心に響かない。若い主役だとやっぱりこういうことになる、なぜ追加までしてしまったのだろうか、あと2回もあるのに…自分に対して怒りすら感じながら劇場をあとにした。今月はやはり第二部の、人間国宝コンビの話か音楽の話か、他のことを書こう。そう思ったのもこの日である。

そしてしぶしぶ出かけた3回目。ここで、今までの観劇人生で感じたことのないような衝撃を受けることとなる。

はじめ、袖萩は娘のお君に手をひかれて花道から出てくるが、この第一声がもう数日前の袖萩とは全く違ったのだ。性根の据わった声。無理に悲しい気持ちを演じているのではなく、ただ武家の娘として、そして母として生きる袖萩がそこにいた。ちょっと声の出し方を変えてみたとかやり方を変えてみたとかそんなレベルではない。まるっきり別人なのだ。演じる人の心持ちがかわったために顔つきまで違って見えて、本当は役者が他の人になったのではないかとすら思う程度の変化ぶり。演出家がいるわけではない歌舞伎で、初日があいてからここまで芝居が変化するとは…!それなりに評価されていた芝居をここまで大きく変える勇気はどれほどのものかと、それだけでも身震いするほどの覚悟を感じるのに、変化した後の芝居が驚くほど良い。歌舞伎でよく言われる“型”がより濃く前面に出てきたことで、型にはまるどころか心の底にあるものがかえって激しく外側に溢れ出てくる。一見、おさえた芝居になったにもかかわらず、だ。演じているのは紛れもなく七之助丈なのに、見ている間はその存在が消え、一人の人間・袖萩だけが舞台上にいる。
心の底から泣かされた。歌舞伎が古典でなく現代に生きる芝居であることまで実感させられてしまった。その後何度か観ていても崩れることなくさらに進歩を続けていて、客席にいてこれほど泣いてハンカチを噛み締めたのははじめてではないかと思うほど、毎回心が動かされる。ストーリーの展開上、主役ながら幕切れに袖萩がおらず、存分に拍手を送れないのが残念なところでもあり、また袖萩らしさでもあり。舞台は27日までだが、もし配信があればぜひそちらで見て欲しい。

舞台というのは、この手の予想を超えたものにいつ出会えるか予測できるものではない。出会って「心打たれた!誰かに言わなくちゃ」と思ってもその舞台はすでに行ってしまったあとだから、他の人に勧めるのだって難しいどころの話じゃない。状況が許す限り、アンテナにひっかかったり誘われたりしたものは飛び込んでしまうように心掛け…ると言っている限りこの広大な沼からは抜けられなさそうだな。

02.今月の演技をめぐる言葉

オニギリジョー @Toshi626262y

このところ日本映画の女優の素晴らしさを感じることが多いのですが『花束みたいな恋をした』の有村架純さんは一頭地を抜いていると思います。
現在上映中の作品群では其々の女優陣が見事な演技をみせてくれますが何の外連もない普通の若い女性の実在感を表現した有村さんの前では正直霞んでしまいます

オリジナルツイート

oec @oecoecoec

Eテレの女殺油地獄。登場するなり劇場全体をパッと明るくさせる圧倒的な華。台詞や演技に占める色気・凄み・愛嬌の成分比率を自在に操る卓越した技量。そしておそらく古来より優れた役者のみが持ち得た、魔力に似た磁場発生力。以上三点。仁左衛門は人類の宝に相違ありません。別格です。松嶋屋!

オリジナルツイート

ふゆなご @FuyuNago

『#すばらしき世界』、
演技の上手下手は分からないから沸き上がる感情で書くしか無いのだけど、開幕直後は役所広司氏にしか見えないのに、10分にも満たない内に“三上”としか思えなくなっていて、終わる頃には映画が終わるのが悲しくなるほど“三上”に親近感を覚えてる。やっぱり物凄い役者さん。

オリジナルツイート

引用させていただいた皆さん。ありがとうございました。††

03.今月の「Wonder of Act」(編集人一押し)

『ひとくず』パンフレット

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監督・脚本・編集・主演 上西雄大インタビューより

一番目を背けたくなったのが性的虐待の話でした。ただ、それを入れずに脚本を書いてしまうと現実からずれてしまう。かといって、子どもが実際に性的虐待を受けるシーンを描くことは僕にはできなかった(中略)親分に凛が迫られるシーンでも、希良梨さん(子役)を外に出して、「ものすごく嫌なものを見ている顔をしてほしい」と伝えました。

映画評~石戸諭より

上西によれば、小南(希良梨。子役)の表情はすべて「演技」として撮っている。
虐待を繰り返す母親をそれでも大事な存在だと思ってしまう時の表情、児童相談所の職員がやってきた時の表情、それでも母親のもとを離れようとしないときの表情、これらはすべて演技である。
(中略)
声には出せない心の中のセリフまでしっかりと監督が指示し、彼女がそれを消化することで顔で見せる演技を成立させている。

全ての子役は、こう撮られるべきだと私は思います。子役だけではない。すべての俳優は、けっして作品の素材ではないのです。

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04.(隔月連載) 演技を散歩 ~ pulpo ficcion

第六回「乱暴な男たち」

いつもの年も、こんなんだったけ?と感じるほど、乱暴者の日本映画が多い。『無頼』『ヤクザと家族』『すばらしき世界』『ひとくず』

『Swallow スワロウ』ヘイリー・ベネットの間然とすることのない気丈な美しさを愛でたい気持ちもあったが、今月はしばらくぶりに男性俳優を歩きましょう。

それに前号で引用したツイートがずっと気になっているのだ。

山藤章二が、いや、もしかすると山藤章二がイラストをつけていた作家が、何かのエッセーで「どんな大根役者でもアウトロー役だけはうまくこなす」という書いていた。昭和のことだ。そこに、書かれていたか、あるいは自分で続きを考えたのか定かではないが、つまりこういうことなのだろう(高齢者記憶あいまい文章の典型例)。

「誰しも、他人や世の中に、不満や怒りがあって、それを燃料にすることで悪役を造形できる。」

上のツイートは、この燃料が今の世から失われているのではないか。という問題提起でもある。わかりやすい怒りが見えにくくなり、勧善懲悪が成立しづらい世の中で、作家や演じ手はどのように悪、乱暴、暴力を描いていくのだろうか。

それではここで、二人の乱暴者を召喚しましょう。
三上正夫(役所広司)~『すばらしき世界』、金田匡郎(こちらも「まさお」、上西雄大)~『ひとくず』である。

シネマトゥデイYouTubeチャネルの西川美和監督のインタビューによると、役所広司というビッグネームは「切り札を使ってでも絶対勝ちたかった」ゆえの起用なのだそうだ。西川監督をして「絶対勝ちたい」と思わせる映画産業って、と思ったのだが、それはさておき、監督はこう続ける。

「役所さんは脚本のすべてに目を通してやってくる。現場で解釈について質問しない。戯曲の設計を完全に自分のものにした上で、静かに立ち位置に立っている」

なんか。しびれますね。これだけで。一人自室でシナリオを読みこむ役所広司をこっそりのぞき見したくなるじゃないですか!

ともあれ、『すばらしき世界』で役所=三上が見せる乱暴は、3つの種類がある。と整理するのも恐れ多いけれど。

1. 同じアウトローや官憲に対する純粋な暴力の発動
2. 一般市民に対する脅し・凄みのためにする乱暴
3. 三上本人の抱え持つ怒り

この描き分けが完璧かつ精妙だ。観ていただければ直ちにわかるので、くだくだしく説明はしない。例えばチンピラの腹に攻撃を加えている時の野獣のようなまなざし。スーパー店長に凄んでみせるときの、あ、これは手は出さないなとわかる脅し。そしてディレクター(仲野太賀)に急所をつかれ、声を荒げ電話を切った後の、本当に本当に安くてみみっちい自暴自棄。

すこしネタバレになるが、映画終盤、勤め先の職員に暴力をふるうシーンに、これは幻想のビジョンだ、とすぐに気が付く。一般市民にマジモンの暴力行使をする男ではないと体感させられているからだ。

怒りだけでこれだけの多彩さを持つ三上。加えて、泣き、バカ丁寧さ、おろおろさ、かわいらしさ、体の痛み、恋慕、と喜怒哀楽の一つ一つの要素を細分化したカラフルな属性をまとって、この「すばらしき世界」を彼は生きる。その全体が確かに<一人の人間>として、存在として、記録され、私たちに届くことの途方もない贅沢!

もう一方の乱暴者は、これはもう、山藤章二的な意味において、一枚岩である。のべつまくなし乱暴なのだ。触るものみな傷つけた(©康珍化)である。この演出、演技を監督・主演たる上西雄大は相当意図しているはずだ。紋切り型的といってもいい乱暴描写が繰り返されることで、そこには笑いが生まれていたから。

1990年代、ダウンタウンは『ごっつええ感じ』で暴力の乱暴さそのものを記号として抽出し、わざわざ見せることで無意味化し、なんとも名付けようのないその乾いた対象を笑う、という<型>を集大成した。『ひとくず』の作劇はこの延長線上にある。情婦にキれる、小学校教師にキれる。ネグレクト母にキれる。その愛人にキれる。ラーメン屋の、焼き肉屋のホールスタッフにキれる、ケーキ屋さんでキれる。キれ方は一様(この馬鹿女!ブス!だまれ!)で、だからどんどん可笑しくなってくる。

観覧車に乗った母と子そして金田が哄笑するロングショット。虐待されていた子の朗らかな笑い声、虐待に加担していたはずの母の「わざとらしいんだよその笑い方が」というセリフの自己批評性。それは演技を見せることと演技をすることと、それを自覚するところに生まれる幸福な笑いだった。90年代の乾いたギャグは、こうやって再び人肌を取り戻したのだ。

金田自身も幼児期に虐待を受けていた。冒頭からくり返し描かれる彼の過去と現在をつなぐのがアイスクリームというプロットである。母の情夫から虐待を受けた後、母が差し出すアイスクリーム。親の愛と欺瞞の象徴としての甘くて冷たい菓子。

物語終盤、あれほど禁忌していたアイスクリームを食べる金田の、その食み方の乱暴で汚いさまが、プロットを本物にする。単なる設定を越え、モノに気持ちが宿り、急速に過去が現在と、物語が現実と接合される。そしてドラストぼろ泣きです。マジ号泣です。

虐待児童の部屋に空き巣が忍び込み、子どもを、母を助け、そして、自分も救われるというのは、一種のファンタジーだ。そのファンタジーをエンタテインメントとして完結させ、なおかつ、現実への回路をつないだ上西雄大の、頑ななまでに一転突破の演技に心からの拍手を送りたい。

もともとこんなにこんがらがっていたのか、あふれかえる情報のせいでこんがらかっているように見えるだけなのか、答えはシンプルのようでいて、実際に動き出すと何がどうシンプルだったのかわからなくなってしまう。しかし確実に暴力と乱暴は、はびこっている。その怒りの何が正当で何が不当なのか。語りにくく、また見えにくくなった今、しかし、素晴らしい俳優たちは、素晴らしい乱暴を描いてくれた。春が近い。

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05.こういう基準で言葉を選んでいます

舞台、アニメーション、映画、ドラマ、etc。人が<演技>を感じるもの全てを対象としています。編集が観ている/観ていない、共感できる/共感できないは問いません。熱い・鋭い・意義深い・好きすぎる、そんなチャームのある言葉を探しています。皆さんからのご紹介もお待ちしています。
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引用エントリー中にスチルが載っている場合、直接埋め込まず、文を引用、リンクを張っています。画像引用は一枚で即作品のため「都度、引用元、作者を明記する」のが法の求める運用ですが、SNSについては現状そこまでの厳格さは求められてはいない(求めるべきとも思わない)。一方、このマガジンのように一カ所にまとめるのは、個々のSNSとは表現レベルが異なるだろうという判断です。

06.執筆者紹介

箕山 雲水
兵庫県出身。物心ついた頃には芝居と音楽がそばにあり、『お話でてこい』や『まんが日本昔ばなし』に親しんで育った結果、きっかけというきっかけもなくミュージカルや歌舞伎、落語を中心に芝居好きに育つ。これまで各年代で特に衝撃を受けたのは『黄金のかもしか』、十七世中村勘三郎十三回忌追善公演の『二人猩々』、『21C:マドモアゼルモーツァルト』

pulpo ficción
1965年生男性会社員。観客部感想班。と言ってもこれは特定の団体ではなく、作品に触れ、何かを感じた人の合言葉になるといいな、と考えている。昨年、シアターカンパニー「左岸族」を友人と二人で結成。2021年旗揚げ予定

07.編集後記

見てのとおりである。この雑誌のメインコンテンツである「今月の演技をめぐる言葉」が3エントリーだけだ。主因ははっきりしている。編集人の他アクティビティが多すぎるのだ。また年明けから仕事が怒涛の年度末進行であることも手伝った。結果

1.そもそも言葉を探す時間がない
2.また、編集人の主ジャンルである映画鑑賞においても、封切直後に作品を観ることがめっきり減った。このため、自分が観ていない映画の話題をスルーすることとなり、コンテンツ発見の機会をさらに減らした

やらねばならないことはわかっている。編集者を増やすことだ。そのための実効的な戦術のアイデアが降ってくるのを待つ。春が来る。一番苦手な季節。

何とかこの季節の端境をやり過ごし、みなさん第15号でお会いしましょう!(3/28日発行予定です)


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