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演技と驚き◇Wonder of Acting #6

人が、なまの体と声で表現する<演技>。一つとして同じもののないこの表現に魅入られてしまった人のための一つの場所。(June/2020)

01.今月の演技をめぐる言葉

引用させていただいた皆さん、ありがとうございました。

02.【隔月連載】演技を散歩 第二回「映画をはじめる演技」 ~pulpo ficcion

今、三浦友和をめあてに映画・ドラマをみる人がどれくらいいるだろう?

60歳代後半の男優はたくさんいる。一人で作品を背負える草刈正雄や水谷豊が稀有な存在なのだ。それに知名度ということでいえば、同年代の俳優陣の中で三浦友和はきっと上位に食い込むだろう。
が、それはそれとして、私は、これまで、この俳優の何を見てきたのだろう。『台風クラブ』の主人公、中学生たちの側に、私はすでに立ってはいないことを、尾美としのりよりもはっきり・きっぱりと教えてくれた三浦友和の、何を私は見てきたのだろう。

風の電話(paravi)風の電話(クランクイン!ビデオ)

『風の電話』は危うい作品だった。追い込みがモトーラ世理奈を損ねるんじゃないか、開始20分ほど、そう感じてハラハラしていた。

これはいつか別の稿で触れるべき大きな主題なのだが、演技が身体と感情をメディアとする限り、俳優の身体そのもの・感情そのものと、<演技されたもの>を分離することは、時に非常に困難となる。また、その困難さこそ演技の特異性・特権性なのだという主張や演出も成立しうる。今は深入りはしないとして、被災し家族をうしなった(上に叔母まで倒れてしまった)主人公のハルに、あまりにモトーラ世理奈を寄せに行っていないか、この演出は。そんな危惧をいだいたのだ。

そこに現れたのが、三浦友和(演じる公平)だ。監督や三浦本人のインタビューによると、彼に対してもセリフを指定しない、俳優の生理を優先する演出がなされていたようだ。そして、三浦友和は守った。映画の現実の中でハルを、映画の製作の中でモトーラ世理奈を。

公平はぶっきらぼうで、乱暴だ。立ち入り禁止の飯場のような場所で倒れていたハルを見つけた公平は彼女を自宅につれていく。言動は田舎おやじのそれだ。体をつかみ移動させる、洗い方がなっちゃいないと手をつかんで手洗いさせる。「あかんぼかよ」「おいどっから来た」。終始命令口調の公平が、けれど、少したたきつけるような声をかけたその後の、間(ま)。その表情。

三浦友和はここで、待っている。相手の言葉を、リアクションをただ、待っている。真ん丸な、打算や悪意のない真っ黒なまなこで。返答への期待を押し付けることもせず。ただ待つことだけをしている。そして、驚くべきことに待ちすぎない。少し待つとがっかりもせず、自然に次の動作に移っていく。

三浦友和は、何かを表現しようとしない。ひたすらハルに「食え」「生きてんなら食え」「食って食って」そう伝え、結果少しでも食べさせることができ、彼女を送った夜の駅、軽トラックの中で「死ぬなよ」「はい」。そのやりとりさえ引き出せれば、それで良かったと。それだけで物語に公平が登場し、この座組に自分が参加した意味があると、そう信じているのだ。

『羊と鋼の森』で三浦友和が演じるのは、プロのコンサートチューナー(演奏会用の調律師)だ。彼と出会い調律師を目指す青年(山﨑賢人)が物語の主軸だ(上白石姉妹の愛らしさはここではぐっとこらえて触れない)。
中盤開始付近、おちこんだ山﨑が三浦にアドバイスを求めるシーンがある。ここでも、三浦は山﨑に声を届かせることだけを行っている。だから、彼の口調やそぶりは、やや説明的になる。厚塗り的になる。けれどそれは、観客に対する説明(わかりやすさ)の厚塗りではないのだ。対話する相手役、そして対面する俳優への、伝えたさ故の言い回しなのだ。その口調が、どの映画でも少し似ていることなど何だというのだ。いや、実際、三浦友和節とでもいう相手に言い聞かせるような独り言ちているような(つまりこれが三浦の姿勢だ)言い回しが厳としてあり、もしかすると、それは『台風クラブ』以来のことではと想像もするが、それもわきに置いておこう。

もし、彼が大根役者に思えるのなら、彼が他の役にどれだけ興味を持ち、声を届け、相手の声を聴きたいと思っているか、そのことに気付かない残念な鑑賞なのだ。と言い切ってしまいたい。それが証拠に『羊と鋼の森』で調律の理想として語られる原民喜の言葉を、こんな風に棒で読める俳優がどこにいるだろう。

明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えてゐるやうでありながら、きびしく深いものを湛へてゐる文体、夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体

逆説ではない。言葉自体に力のある文章を、力のない俳優は、自分がそこから得たものを再現しようと「表現」してしまう。悪しき厚塗りである。相手俳優を、座組を、観客を信じている俳優は、ただ読むのだ。ひとがそれぞれの思いを乗せられるように。自分の声が届くことだけに注力して。

(うん。書いてて三浦友和のことがどんどん好きになってきた。何となく気になる俳優だったのが、裏<柄本明>みたいな存在に感じられてきた。)

『アウトレイジ ビヨンド』引退後の会長がパチンコに通う普段着のしょぼくれた姿。『DESTINY 鎌倉ものがたり』息子に「想像力という武器」を渡すときの芝居芝居した演技。三浦の演技は、いずれも映画の中で伝えることをまっすぐ目指している。まわりの全てへの信頼と好奇心と配慮がまず、だから何よりも先に立つ。

『風の電話』に戻ろう。三浦友和(公平)は、物語という現実の中で演者として、素朴でヒューマンな交流をハルと持ち、そのことでハルを救った。おそらく、のみならず、モトーラ世理奈をも救った。剥き出しの厳しい現実を<素>で生きかねなかった俳優に演技というインターフェースのまとい方を伝えたのだ。

私たち観客は、ここで一度、公平とともに舞台を去る。ハルの旅に付き合えない自分を、とどまって「食って出して」生きていかねばならない自分を自覚するから。そして、フィクションとしての映画はここから始まり、私たちは再び観客として、この映画を享受する。

『風の電話』における三浦友和は、この作品を<はじめた>のだ。作品を背負える俳優は、それこそ稀有な存在であろう。けれど、いったい、俳優が作品をはじめるシーンに一生のうちどれほど出会えるというのか。

最後はだから『羊と鋼の森』、店主が若き調律師の出発を、やや芝居がかった口調で勇気づけた一言で締めくくりたい。

きっと、ここからはじまるんですよ。お祝いしてもいいでしょう。

(そして私はAI崩壊を三浦友和目当てで観るのだ。なんという楽しみ!) ■

03.今月の編集人のチョイス

すみません。Wonder ではありません。一「押し」でもありません。けれど考えるべき問題だと感じたので、掲載します。問題の深刻さを性急な結論に結び付けないように、双方の当事者を脊髄反射的に批判しないように、どこからが構造的でどこからが属人的なのか丁寧に考え分けるように、そして私をどこか特権的な場所においてわかったふりをすることのないように。

04.こういう基準で言葉を選んでいます。その他

対象は、舞台、アニメーション、映画、ドラマ、etc、人が<演技>を感じるもの全てです。私が観ている/観ていない、共感できる/共感できないは関係なく、熱い・鋭い・意義深い・好きすぎる、そんなチャームのある言葉を探しています。皆さんからのご紹介、投稿もお待ちしています。投稿フォームも作成しました(まだ投稿数0です。アドレスが敷居高いかしら) → 投稿フォーム

第7号は7月28日発行。マチさんの連載「俳優が描くカタチ」の第二回も掲載予定です。ご期待くださいね。

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05.編集後記

編集日が日曜になったので、今回は楽!と考えておったわけですが、時間があったらあったで、自分の原稿を推敲しすぎていいのか悪いのかわからなくなるし、今月のチョイスは載せたものかどうか何回も消したり書いたりするしと苦労しました。いずれにしろ自分の言葉が多いとどうしても「これでいいのか?」感が漂ってしまいます。ぜひ言葉をお寄せください。本当に。でないとこちらから原稿依頼に行きますよ。僕粘着系ですよ(笑)。それでは、皆さん、よい夏を!

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