村上・鶴岡の旅_新潟県村上_藤基神社_2023年6月
光徳寺さんを後にして
ほど近くの藤基神社さんへ。
藤基神社さんは光徳寺さん同様
村上城三の丸にあります。
度重なる跡継ぎ早逝の禍いから
護るため内藤家江戸屋敷に
家祖内藤信成の霊廟をお祀り
したのがはじまりということです。
村上藩主として入府した内藤弌信が
信成の分霊勧請して社殿を建立。
(藤基神社HPより)
鳥居三十郎切腹後、家名断絶するも
ひとり娘の光と恭順派である江坂氏の
息子二郎が婿養子として結婚。
明治16年(1883)家名再興したと
言うことです。
この結婚は三十郎家の再興と
旧村上藩内一本化の願いも込められて
いるような気がしました。
村上藩のため一身に責任を負った
三十郎の功績を堂々と讃えられるようになった追悼碑なのですね。
青砥武平治は鮭の回帰性に着目して
三面川に分流の種川を造成することを
藩に提案、藩主内藤信凭はその提案を
受け入れ河川改修と鮭の保護を実施、
次代藩主の信敦は「種川の制」を制定。
鮭の漁獲量が次第に増え藩の財政UPに
貢献したということです。
ちなみに、三面川の鮭漁業権で得た
収入源は旧村上藩士の子弟の教育にも
注がれたそうです。学校を建て、その
卒業生は「鮭の子」と呼ばれました。
ただ、町民は恩恵を受けられなかった
ということで、士族との争いもあった
そうです。
村上は士族と町民との町割りは
はっきりと住み分けられて役場も
学校もそれぞれ別にあったそうです。
昭和21年(1946)に合併、ひとつに
なったということです。
こういうことも村上らしい歴史です。
恭順派だった江坂与兵衛の名前と共に
江坂を暗殺した島田鉄弥の名前もある。
正直なところ、島田の名前あることが
不思議だけれど島田を加えたのは
当時の旧村上藩士達の複雑な思いが
あるのでは?と想像。
戊辰戦争の碑よりもコンパクトな
日清・日露戦争忠魂碑。
藤基神社さんの拝殿・石の間・本殿は
権現造の総檜で嘉永2年(1849)に建立
されたそうです。きらびやかな装飾は
ないけれど立派な社殿です。
この素晴らしく見事な彫刻は
有磯周斎という村上の宮大工さん。
藤基神社建立の際、彫刻方棟梁として
見事な彫刻を社殿に彫りあげた。
籠彫りという優れた技法による彫刻は
社殿をより荘厳に引き立てています。
(藤基神社HPより)
拝殿に控える狛犬はどちらも
愛らしく手元の子狛犬を
慈しむように抱いている。
内藤家や氏子藩士達の子孫繁栄の
願いが込められているようでした。
三の丸土塁の遺構あることを
失念してて見忘れました💧残念
御朱印拝受のため訪れる方
結構いらっしゃいました。
次は村上城址へ向かいます🌿
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