見出し画像

村上・鶴岡の旅_新潟県村上_光徳寺さん【村上藩主内藤家菩提寺】_2023年6月

宝光寺さんを後にして
坂道をテクテク下ると
あとは平坦で長閑な道を歩きます。

臥牛山(村上城址)
光徳寺さんの本堂が見えてきた
臥牛山(村上城)のふもとです
常照山 法善院 光徳寺
羽黒門

村上城三ノ丸にある内藤家菩提寺。
三ノ丸には代々の村上藩主菩提寺が
おかれていたそうです。
目まぐるしく藩主が交代したのは
村上が左遷の場所だったのかなぁ。
内藤弌信が享保6年(1721)村上藩主
として入府し明治維新まで内藤家の
藩統治が続きました。
弌信の家祖、内藤信成は徳川家康の
異母弟にあたります。
弌信は江戸で生まれのちに陸奥棚倉藩
内藤家の養子となり棚倉藩主になるも
駿河田中藩へ移封、さらに大阪城代を
任じられたということです。
大阪城代を罷免されたそうなので
何か失態あったのでしょうかね?
そして越後村上藩へ移封されたという
ことです。

解説板
本堂へ続く参道
草丈の長い可愛い黄色い花
ブタナがたくさん咲いていました
こちらは内藤家代々藩主の
ご家族達の墓所
整然と墓石が並びます
内藤家藩主ご家族の墓所
内藤家藩主ご家族の墓所
凛とした表情の石仏
戒名が刻まれています
戒名を読むと「童女」と
幼い姫様のお墓でしょうか
なんとも可愛らしい墓石
傍らにムラサキツユクサ
参道脇に花が咲いてました
本堂
本堂を過ぎ内藤家藩主墓地へ
内藤家藩主墓地への石段
石段の傍らに標柱
内藤家歴代藩主墓の他に
堀直奇顕彰墓碑と榊原孫七郎墓碑が
あるようです
石段脇にある
宇賀大明神と毘沙門天
内藤家藩主墓地の周囲に
咲いていたヨメナの仲間
一番右側の少し奥まった場所にある
宝篋印塔は内藤信成の墓所
徳川家康の異母弟と言われている
村上藩内藤家の家祖ということです
整然と並んだ歴代内藤家藩主墓所
右が内藤信民の墓所
真ん中は内藤信任、左は内藤信利

東京渋谷区の東北寺さんにあった
藩主一族のお墓を光徳寺さんへ
移してきたということです。

内藤信民は激動の幕末時に
村上藩主となりました。
信濃岩村田藩主内藤正縄を
父として生まれ、越後村上藩主
内藤信思(当時信親)の嫡男が
早逝したためその養子に入った。
養父の前藩主信思は恭順派であり、
まだ10代の若き信民は養父の
為すがままだったと想像。
村上藩家老鳥居三十郎は江戸屋敷へ
赴き信思と信民父子に帰国して
藩内の混乱を収めてほしいと懇願。
信思は自分が帰国したら強硬な
抗戦派の藩士に殺されると思って
いたのではないだろうか?
信思は信民の帰国を許したが
まだ若い信民に藩内の意見を
まとめられると考えたのだろうか?
まぁまとめ役は家老達なのでしょう。
近代化を推進したい(前)藩主と
保守的な気風の強い藩士達との
意識の差は大きかったと想像。
新政府からの勤王を問う勅書が
届いた際に一旦は勤王を了承した
村上藩だったけれど信民の帰国後に
藩士総登城での話し合いで正式に
会津への味方を決定。
そして奥羽越列藩同盟に加盟。
信民は寺社へ参拝する機会が多く
なっていき、とうとう7月15日夜
自殺してしまった。(と伝わる)
村上藩意を恭順へまとめられず
自身の不甲斐なさ、力の及ばなさを
憂いた挙句に命を絶ったとしたら
とても気の毒な藩主様だったと思う。
家老鳥居三十郎は主君の死を
大変悔やみ悲しんだという。

境内にたくさん花が咲いていました

信民が亡くなったため遠縁の
和泉国岸和田藩主岡部長寛の長男
岡部長美を養子に迎え最後の村上藩主
内藤信美となった。
版籍奉還により村上藩知事となるが
旧藩内の対立は根深く旧藩主信思を
補佐に迎えるも新政府に進退伺を提出。廃藩置県により藩知事を罷免。
村上県は新潟県へ統合された。
信美は戊辰戦争で焼け残っていた
村上城郭の破却を新政府へ申請し
受理され城門や城建材を破却・売却。
養父信思の二男信任に家督を渡し
信美は東京へ移転、岡部姓に戻った
という。
お役御免で内心ホッとしたかも…

手前勝手な拙い妄想しながらも
次へ向かいます🌿

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?