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群馬県みなかみ町_義民_杉木茂左衛門と松井市兵衛の史跡を訪ねて_2024年1月

表題画像は利根川に架かる
月夜野橋です。

だいぶ以前より群馬県沼田から
みなかみ町を巡り歩きしたいと
思っていました。

中世の沼田〜みなかみは境目の地域、
上杉氏・武田氏・小田原北条氏大名達
の狭間を巧く泳ぎ生き抜いてきた武将や
領民達の歴史はとても興味深いです。

調べていたら江戸時代この地域に
幕府へ越訴した領民2人もがいたという
歴史を知ってビックリ。
なんか尋常じゃない。義民の名前は、
松井市兵衛と杉木茂左衛門。
他にも数人直訴した領民がいたという
ことですが今回は市兵衛さんと
茂左衛門さんの史跡を巡りました。
経過を知るため、まず沼田真田家を
簡単に調べてみました。

初代沼田藩主の真田信利
(信澄・信直とも)の祖父は真田信之。
ご存じの通り真田信繁の兄です。
兄弟は豊臣と徳川に分かれて家を
存続した真田家ですが、信之の長男
信吉の母は真田信綱(昌幸の兄)の娘で
信之とはいとこ同士の夫婦でした。
信之は本多忠勝の娘、小松姫を妻に
迎えたため小松姫が正室の立場に。
信吉の母は側室待遇だったようです。
沼田領を祖父信之から継いだ父信吉が
40歳で亡くなり長男の熊之助が叔父の
信政(信之次男)を後見人として継いだ
ものの7歳で早逝してしまいました。
次男の信利は沼田領のうち5,000石を
分与されるもまだ幼少だったため
叔父信政が沼田藩主となりました。
その後信政は真田宗家を継ぐことに
なったので松代藩主に。
信政が沼田城を去るまで信利と生母は
みなかみ町月夜野の小川城三ノ丸に
陣屋を建て18年間暮らしたそうです。
信政が松代へ移ったので信利はやっと
沼田領を継げると思ったのではと想像。
その後真田宗家松代藩主信政は61歳で
父信之よりも早く亡くなり跡目相続に
信政の子、やっと2歳の信房(幸道)が
継ごうとしたところ「待った!」と
手を挙げたのは信利でした。
信政には他にも男子がいましたが
6男の信房を指名しなければならない
真田家の家庭内事情あったようです。
信之長男の血筋である信利は宗家を
継ぐ権利ありと訴えたそうです。
信利には江戸幕府大老を務めた
厩橋藩主酒井雅楽頭忠清がバックに
ついていたとも言われています。
信利の父信吉の正室は酒井忠世の娘で
忠清の伯母か叔母にあたるという
ことでそういう繋がりも関係あるの
かも知れません。
齢90を過ぎた信之は老体に鞭打って
幕閣とよくよく論議・説得を行ったと
言われています。
そして真田宗家は信政の子信房が継ぎ、
沼田領は信利が沼田初代藩主として
立藩が決定したということです。
信之のおかげで真田家はお家騒動による
取潰しをなんとか免れたのでした。
けれどなぜ、信之長男の血筋は
不遇だったのでしょう?
信之は徳川家に対してかなり気を
遣っていたのでしょう。

前置きが長くなりました。

1月13日はみなかみ町月夜野の
嶽林寺さんでプロアドベンチャー
レーサーの田中正人さんの講演会が
あるという嶽林寺ご住職のSNSを
拝見して参加申込みしました。
やっとみなかみ町へお邪魔する
ご縁ができました。
講演会は午後からなので、午前中は
歴史巡り、ゴールは嶽林寺さんという
巡りコースを決めました。
心配なのは天気予報ですが
みなかみ町に雪予報があったので
しっかり防寒の支度をして出発。
上野駅から高崎駅まで新幹線移動です。

上野から新幹線に乗車
みなかみ町は雪予報だったので
相棒のコンちゃんは留守番
高崎駅で下車
バイバイ👋E7系
高崎駅構内の機関車だるまさん
カッコいい
高崎駅構内
ぐんまちゃんとだるまさん
高崎駅は色々な路線が
乗り入れています
上越線に乗って
沼田駅まで向かいます
水上行き
上越線 敷島駅
群馬県渋川市
沼田駅に到着
高崎駅から約50分
沼田駅改札近くにある
大天狗さん

迦葉山弥勒寺山へも行ってみたいなぁと
天狗面を眺めながら改札口を出ました。

沼田駅出ると左側にトイレがあります。
路線バスが来るのを待つ予定でしたが
タクシー1台だけ停まっているでは
あーりませんか。

雪天気コースと晴れ天気コースの
2つ巡り歩き予定を立てていました。
雪天気なら義民史跡巡りだけ、
晴れ天気なら義民史跡巡りに併せて
名胡桃城址コース。
タクシー利用すれば両方巡れます。
まるで私を待っていたかの
(勝手な思い込み)タクシーに乗車。

タクシーの運転手さんに名胡桃城址へ
向かう途中で3ヶ所史跡へ寄りたいと
お願いし快く受けてくださいました。

さて、先に紹介した2人の義民に
ついて拙いながらまとめてみました。

沼田藩主真田信利による藩政は
全く良い話が出てきません。
酷い苛政ばかりです。
領地の再検地を行ない本来の3万石から14万余石へ無理な嵩上げ検地を行い
寺社や江戸屋敷の豪奢な建築など
全ては真田宗家の松代藩の対抗意識
からだったのではといわれています。
もちろんその負担は領民に重税となって乗しかかり年貢を納められない領民は
家族もろとも水牢に入れられて
体温低下で当然死者も出たそうです。
酷い…

そんな沼田藩の苛政を幕府へ直訴する
ために立ち上がった2人の領民が登場。
先に越訴したのは松井市兵衛でした。
市兵衛は政所村の名主で天和1年(1681)
幕府目付桜井勝政へ越訴を行ったけれど
取り上げられず直ちに捕えられ投獄され
拷問を受けたのちに真庭村(政所村の北)
の街道筋で打首刑に処せられたという
ことです。

松井市兵衛の越訴失敗の数ヶ月後
月夜野村の杉木茂左衛門は幕府目付へ
越訴しても取り上げてもらえないと
思い策を練り訴状を輪王寺宮の菊の
御紋の入った偽物の箱に入れて
中山道板橋宿場の茶屋にわざと
置き去ったそうです。
茶屋から上野寛永寺に箱は届けられ
訴状を読んだ輪王寺宮から将軍徳川綱吉
へ知らされたと伝わります。

沼田駅から恩田方面へ
国道291号線をタクシーで数分
石屋さんの向かいにある大きな石碑
大きな石碑から畑沿いの
細道を進むと塚がある
杉木茂左衛門の訴状を清書した
大宝院昌月覚端法印が
石子詰めの刑にされ絶命した場所
由来碑

由来碑を読むと昌月覚端法印は
新治村須川にあった大宝院宝蔵寺の
住職で予々沼田藩の苛政に憤り
杉木茂左衛門に協力しました。
茂左衛門の訴状を清書した罪で
石子詰めの刑に処されて絶命。🙏

大宝院塚を後にして
状橋地蔵尊へ向かいました。

大宝院塚からほど近く
国道291号線を右折して
橋のふもとにあります
案内板ないので
うっかり見過ごしそうな
場所にあります
傍らに佇む石に
文字らしきが刻まれるも
読めません

状橋地蔵尊は、杉木茂左衛門の助命嘆願が許されてその赦免状を役人が持参する
途中、間に合わず茂左衛門の処刑が
行われてしまったことを知った役人が
引き返した場所とも、責任を感じた役人がここで切腹して果てたとも伝わる場所に地域の領民達がお地蔵様を建てたと
伝わるそうです🙏

状橋地蔵尊を後にして
市兵衛地蔵尊へ向かいました。

市兵衛地蔵尊
解説板
市兵衛地蔵尊🙏
先駆けし 梅恩讐の 野に白し
相葉有流の句碑
千葉県千葉市の出身で
群馬大学教授の方

松井市兵衛が処刑された場所に
市兵衛地蔵尊がお祀りされています。

真政寺さんから市兵衛地蔵尊を見る

大宝院塚から近いのですが細道なので
途中でタクシー待ってていただき
真政寺さんまで歩きましたがお寺から
少し離れた場所に市兵衛地蔵堂は
ありました。

市兵衛の越訴状控えが月夜野郷土歴史
資料館に展示されています。
市兵衛の越訴が失敗してしまったため
茂左衛門は別の方法で越訴を行って
成功したと伝わります。
藩の悪政で苦しみ抜いた領民の訴えは
命を賭して訴えても取り上げてもらえず
辛い負の歴史です。

市兵衛地蔵尊をあとにして
タクシーで名胡桃城址へ向かいました。
名胡桃城址のまとめは後ほど。

名胡桃城址案内所の方から
茂左衛門地蔵尊までの手作り地図を
いただきました。
(案内所の方、無事に行けました。
ありがとうございました)

名胡桃城址は断崖地形の上にあり
国道17号線を15分ほど歩きます。

国道17号線下の深い沢

途中、深い沢が2ヶ所ほどありその上を
道路(橋)で通過しますが昔の道はもっと
険しかっただろうなと想像しながら空を
見上げるとさっきまで晴天だったのに
灰色の雲が近づいてきて小雪が舞いだし
ました。

リサイクルショップさんの
敷地内にある赤い車両は
わたらせ鉄道を走っていたらしい
灰色の雲に覆われて
小雪舞い出した

国道17号線を月夜野方面へ右折して
坂道を下ります。車も殆ど通らず
人の姿も見かけず小雪舞う坂道は
少々心細い感じでした。
坂道を下り切ると総合グラウンドや
学校が見えてきて小雪も止んで
ホッとしながら歩きました。

月夜野マンホール
赤谷川に架かる関口橋を渡ります
赤谷川の向こうに三峰山(後閑峰とも)
遠くに谷川岳(多分)
少しの時間見えた
茂左衛門地蔵尊の近くで
谷川岳(多分)が見えた
茂左衛門地蔵尊に到着
こちらは千日堂

名胡桃城址から茂左衛門地蔵尊まで
約45分の歩きでした。

千日堂の中
だるまさんがたくさん
茂左衛門地蔵尊
お参りします🙏
千日堂内の天井画
美しい絵です
中央の龍が躍動的
大きな提灯です
お札やだるまさんを拝受に
地元の方が絶え間なくいらしてました
義人杉木茂左衛門之碑
揮毫は徳川家達

関連の史跡として茂左衛門刑場跡地や
奥之院、首塚もあるのですが
時間の都合で行けませんでした。

鐘楼
茂左衛門の処刑場跡は
利根川の河川縁にあり地蔵尊は
処刑場跡にありましたが丘の上に
千日堂を建立してお祀りしたそうです
解説板

私の住む千葉県にも有名な義民
佐倉惣五郎が宗吾霊堂に
お祀りされています。
子供の頃から何度も行きました。
茂左衛門は悪政に立ち向かった義民と
して多くの人々の崇敬を集め、また地域の人々の心の拠り所としてお祀りされています。🙏

特に茂左衛門が義民として注目された
のは明治大正期に講談や戯曲・浪曲で
一躍有名になったそうです。
また上毛かるたの「て」の札に読まれて
います。
当時の史料は少なく、残る訴状控は
後世の写しとも、また史談に脚色部分
あるとも言われています。
それでも領民達が悪政に大変苦しんだ
歴史は本当にあったんだと思います。

領民に対する重税に加えて沼田藩が
幕府から請け負った両国橋の架け替え
用木材の切り出し・運搬に駆り出された領民達の生活の困窮は大変なことだったと私でも容易に想像できるのに当時の
沼田藩は何を考えていたんだろう。
殿様を諌める藩士はいなかったのか?
両国橋架け替え用木材の納期遅滞、
領内での悪政が幕府に露見したことで
沼田真田家は改易、信利やその子供達は
それぞれ他藩へお預けとなった。
同情の余地はない。
信利はご先祖様の顔に泥を塗る歴史を
作ってしまい改易後の余生は何を思い
生きていただろうか。

三峰山と利根川に架かる月夜野橋
利根川の川面

茂左衛門地蔵尊を後にして後閑駅までの道を長閑な風景の中に隠れた哀しい歴史に思い馳せながら歩きました。

三峰山を背にJR後閑駅

茂左衛門地蔵尊から後閑駅までは
歩いて10数分です。
上毛高原駅までの路線バスを待つため
駅の待合室でコンビニで買ったお昼の
パンを食べながら休憩しました。

上毛高原駅周辺のプチ歩きは後ほど。

拙い文、拙い知識、思い込み多しの
まとめにお付き合いくださり
ありがとうございます。🌿

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