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摺上原古戦場の会津蘆名四部将の墓碑を訪ねて_2024年6月

6月最終土曜日、慧日寺資料館主催の
徳一菩薩についての講演会が午後から
なので、午前中は磐梯町に点在する
会津蘆名氏四武将の墓碑を訪ね歩く
ことにしました。

蘆名氏は三浦義明の子、佐原義連を
祖先に持つ一族で三浦氏推しの私は
以前より蘆名氏に興味がありました。
奥州藤原氏との合戦の恩賞として
会津地域を所領とした義連ですが
宝治の乱で三浦氏嫡流等が滅んだ後
北条泰時の妻だった三浦義村の娘が
泰時との離縁後に再婚したのが
義連の子、盛連でした。
盛連の子、光盛が後に蘆名を名乗ったと
いうことです。

朝早く動きたかったので前日夜から
会津若松の宿を予約しました。
前泊は私にとって贅沢なのですが
磐越西線の本数が少ないため朝一番の
新幹線に乗ってもちょうど良い時間の
接続電車がないのです。

前日金曜日仕事終了後、急ぎ東京駅へ
向かい予定の新幹線に乗車。
郡山駅で磐越西線に乗り換え、あとは
終点会津若松駅までのんびり…と思って
いたら車両も本数も少ない磐越西線は
結構な混み具合。なんとか座れたけれど
日々仕事や用事で乗っている地域の
皆さんになんだか申し訳ないような
気持ちでした。
途中、真っ暗な山中を走行中に車両と
なにか動物が衝突して急停車。
約30分遅れで会津若松駅に到着。
ワンマン運行だったので運転手さんが
全部ひとりで作業や処置や確認を行い
本当にお疲れ様でした。

土曜日の会津は朝から佳いお天気。
会津若松7:35発の磐越西線に乗り
東長原駅で降車。

小さな無人駅です
当然ながらコインロッカー設置なし
当日自宅から出発するとしたら
キャリーケースをゴロゴロと
引きながら歩くところでした
会津若松駅を出発の際、
運転手さんから
切符を入れる場所など
親切に教えていただきました

事前に調べていた駅のトイレが
あるはずなのだけれど見当たらず💧
小さな駅舎の奥に古げな建物はあった
けれどその周りは草ボウボウでした。
その建物がトイレだったのかなぁ?
その近くに男性が立っていたので
近寄れませんでした💧
ゴールまで持ちますようにと🙏
神様仏様に願いつつ出発です。

駅は低い場所にあるので屋根のない
階段を上がって道路へ出ます。

駅から上がった場所に
紫陽花咲いていました
東長原駅ぶるう(勝手に命名)

上がると地域の公民館や住宅地。
駅周辺の住所には「空也原」とあり
この辺りは空也上人と関係あるのかな?
と調べたら近くに空也上人が往生された
八葉寺さんがあるとのこと。
またの機会に参拝しようと思います。

住宅地の道端に咲いていた
オカトラノオと黄色い花
ベニシジミ
盛んに花の蜜を吸い
住宅地を抜けて県道へ出ます
橋から日橋川を眺める
反対側の日橋川の景色

橋から眺める日橋川はだいぶ下にあり
この辺りの地形のアップダウンは結構
あるようです。
川には大小の岩がゴロゴロしています。流れは大きく蛇行しているようです。
水も豊富そうに見えるので泳いで渡る
のは難しそうです。

どの辺りかわかりませんけれど
摺上原での戦いで蘆名勢が敗走の際、
日橋川に架かる橋を伊達勢に燃やされて
たくさんの蘆名勢の兵達が日橋川を
渡れず溺れて亡くなったそうです。

田畑の中の道を歩く
山頂はもう夏雲です
GWに来た頃は
植えたばかりの青苗でしたが
しっかり成長しています
手前のこんもり林が
佐瀬平八郎常雄墓碑です

摺上原の戦いはご存じの通り
会津蘆名氏と伊達氏の戦いです。

三春田村氏と蘆名氏の後継ぎ問題は
周辺勢力を巻き込み大小の争いや
策謀を生み、摺上原の戦いへ繋がって
いったのかなぁと想像しました。

蘆名氏も伊達氏も佐竹氏も田村氏も
岩城氏も白河氏もその周辺勢力の
領主達は婚姻や養子で繋がっていて
その関係が戦になった際に相手の
とどめを刺さない程度に和議など
行って収束をはかっていたのでしょう。
これは「洞(うつろ)」という
独特の制度?による繋がりのようです。

田村氏の後継ぎ問題は伊達政宗の
采配で決まったということで
政宗は田村氏勢を取り込むことに
成功しました。

蘆名盛隆は男色の絡れで家臣に
殺されたと伝わりますが
実際は暗殺だったのでは?
と思いました。
盛隆は元々二階堂氏からの人質で
盛氏の嫡男が早逝したため蘆名氏の
養子となり後を継いだということです。
不満に思う家臣がいたと思うのです。

盛隆亡き後、子の亀王丸が継ぐも
夭折してしまい(疱瘡らしいですが
謀殺の感じも…妄想)その後継ぎに
伊達政宗の弟を推す派と佐竹義重の
息子を推す派に蘆名氏内の家臣達は
分かれたということです。
佐竹義重の息子で白河氏へ養子に
入っていた義広が蘆名氏の養子に
決まりましたが、当然佐竹氏の家臣団も
義広に付き従って蘆名家へ入ってるわけ
で佐竹色に染まっていきそうですね。
それを伊達派の蘆名氏家臣は
苦々しく思っていたでしょう。

ところがやはりというか伊達氏は
その蘆名氏内に着々と楔を打つ
策謀を行っていたわけです。

天正17年(1589)4月、相馬義胤と
岩城常隆が田村氏領へ侵攻。
伊達政宗は田村氏支援のため、
この機に蘆名氏との決戦のため
軍を率いて米沢を出発しました。

蘆名義広は相馬・岩城・佐竹連合と
共に須賀川城に陣を置いていたが
家臣の猪苗代盛国が伊達氏に内応し
猪苗代城が伊達の手に落ちてしまった。
その報を聞いた義広は連合軍を引き連れ
急遽、猪苗代湖の南側を通り黒川城へ
戻ったということです。
巧妙な政宗のフェイント作戦は
義広は非常に慌てさせたことと
想像します。

ちなみに伊達氏へ寝返った猪苗代盛国の
嫡男盛胤は主君が留守の黒川城にいて
父の寝返りを知ったそうですが
盛胤は主君への忠誠を尽くしました。

蘆名義広が黒川城でどれだけ連合軍の
体制を立て直せたかわかりませんが
翌朝、蘆名連合軍は猪苗代城へ進軍。
摺上原にて蘆名🆚伊達の戦いが開始。
午前中は追い風が蘆名連合軍に味方し
伊達軍は劣勢だったそうですが
猪苗代城を伊達軍に占拠されている
蘆名連合軍は早くから苦戦したのでは
なかったかなぁと想像しました。
分裂気味の蘆名氏内部に加えて他家から
の援軍の集まりの連合軍です。

午後から風向き変わり伊達軍優勢の
追い風になったそうです。
周辺に住む領民達はこの戦いを
避難先の山麓で見物していたそうです。
田畑や家を荒らされ焼失されて
どんな気持ちで眺めていたでしょう。

猪苗代氏は父の盛国と息子の盛胤が
敵味方に分かれそれぞれ先陣となって
戦いました。
蘆名家家老のひとり富田美作守氏実は
伊達派でしたが嫡男の将監隆実は
主君義広に忠誠を尽くし伊達軍に
対して大奮戦したということです。

伊達軍の猛反撃で蘆名連合軍は次第に
劣勢となり佐瀬河内守など離脱する者が
出てきた連合軍はもはや蘆名義広の力
では統率できない状態に。
総崩れとなったようです。

佐瀬平八郎常雄墓碑
文化2年(1805)10月、会津藩が建立
案内板

前置き長くなりました。
にわか勉強の自分への備忘録も兼ねて
勝手な思い込みを記しました。
間違えてたらごめんなさい。

佐瀬平八郎常雄は富田将監隆実の弟で
佐瀬家へ養子に入りました。
参戦した時、17歳だったそうです。
敗走の際、金上盛備と共に伊達軍から
主君義広を守り盾となり討死したの
かもしれません。

馬頭観音石塔
南無阿弥陀仏…🙏
佐瀬平八郎常雄の墓碑周囲は
田んぼに囲まれています
ムラサキツユクサの蜜吸う
モンキチョウ
磐越西線の踏切
線路は続くよ何処までも
用水から田んぼへ
清冽な勢いの水流
田んぼの水面の映る青空
山と田んぼの景色
大好きです

佐瀬平八郎常雄墓碑を後にして
しばらく山と田んぼの景色を
眺めながら次はやはり蘆名家家臣の
山内俊基墓碑へ向かい歩きます。
Google mapで検索すると墓碑は
磐越西線の線路沿いにあるのですが
そこまで行ける道が表示されて
いないのです。
周辺の道を色々調べたらmapには
表示されていないけれど山内俊基墓碑へ
行ける道がありました。

山内俊基墓碑

山内俊基は会津瀧谷岩谷城主で
奥会津を領した山内一族で
会津七騎党を組織していました。
会津山内氏は平治の乱において
源悪源太義平率いる十七騎のひとり
山内刑部俊道に繋がるそうです。
奥会津は越後国にも近く蘆名氏領と
上杉氏領の境目の国人として活躍して
いたようです。

山内俊基墓碑の前を磐越西線が
通りますが踏切ではない場所を渡る
わけにいかないので踏切まで戻ります。

また磐越西線の踏切を渡ります
磐越西線
線路は続くよ何処までも
(また言う)
心癒される景色✨
県道脇の大谷川近くに佇む
佐瀬大和守種常墓碑
佐瀬大和守種常墓碑

佐瀬大和守種常は蘆名家重臣。
養子の平八郎常雄とともに
摺上原の戦いに参戦。
敗走の途中、大谷川近くで討死。
佐瀬家の家紋は月星で本姓は千葉氏と
伝わるそうです。
名前に「常」がつくから上総氏かも?

道端に紫陽花
県道からの景色
山の名前がわからない

佐瀬大和守種常墓碑を後にして
しばらく県道を歩きます。
次の目的地、金上盛備墓碑までの
途中に長めの坂道があります。
坂道をヘイコラ歩いてる時に
少し離れた場所から「パン❗️パン❗️」
と音がしてなんだろうなぁ〜と
思いながら歩いていました。
後で地元の方から聞いたのですが
熊除けの音だよと言われてビックリ。
熊鈴つけていましたが
近くに熊がいたのかな…💧

あともう少しで金上盛備墓碑と
いうところで、ついにトイレへ
行きたくなってしまいました。
先に近くにある道の駅ばんだいへ
向かいました。

磐梯高原南ヶ丘牧場のコーヒーアイス
美味しかったです

トイレで用を足してホッとして
道の駅のテーブルで休憩。
私の他にハイキング途中の方が
いらして皆さん熊鈴付けていました。

休憩して身体も楽になったので
金上盛備墓碑へ向かいます。

道端にヨウシュヤマゴボウ
紫陽花
こちらも紫陽花
色がきれい

道の駅ばんだいから歩いて10分ほどで
金上盛備墓碑に着きました。

少し高い土盛りの壇に
金上盛備墓碑
金上盛備墓碑
明和2年(1795)建立
案内板

金上氏は蘆名氏と同族です。
蘆名家の筆頭家臣として特に盛備は
「蘆名の執権」と言われたそうです。
津川城主として国境を護りました。
津川は越後国ですが当時は会津領だった
そうです。
蘆名家の名代として京へ赴き織田信長に
拝謁し主君のため「三浦介」の拝領を
信長に働きかけたと言われています。
盛隆死後、佐竹義重の子で結城白河氏へ
養子に入っていた義広を蘆名家の養子に
するため尽力しました。
摺上原の戦いで敗走の際、討死。
主君を守って殿を務めたのかもです。
その後の金上氏ですが盛備の嫡男盛実は
伊達氏に仕えて盛実の兄弟は会津に土着
したそうです。

伊達郡なんとか村何某と読めます
子孫の方が建立したのかな?
読めませんでした
供養塔でしょうか
日露戦争忠魂碑

長々と綴ってまいりました
摺上原の戦いで散った
蘆名家の武将墓碑の巡り歩きでした。
蘆名氏の歴史はにわか勉強なので
勉強不足ゆえの思い込みや間違いなど
ありましたら申し訳ございません。
これからも蘆名氏所縁の史跡を
徳一菩薩所縁とともに時々巡り
勉強していきたいと思っています。終

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