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名古屋巡りへgo_2022年6月🔹大御堂寺(野間大坊)②

悠紀殿
昭和天皇御即位の際
京都御所に建てられた悠紀殿の
一部を下賜されたという
悠紀殿内にお祀りされている
大日如来坐像
元は五重塔の御本尊
平安時代の作という
信徒会館
客殿入口
解説板
客殿
豊臣秀吉が晩年に居城とした
伏見桃山城の建物の一部を
寛永年間に移築したという
ご住職様が一心に御朱印を
書いておられました
客殿内
阿弥陀仏如来立像
法然の供養のために作られた
快慶の作という
開運延命地蔵尊と脇侍仏
秘仏のため御本体は厨子の中
複製の御前立ち像
延命地蔵尊は頼朝が池の禅尼より
授かったものだという
仏師定朝の作と伝わる
脇侍の不動明王
平安時代末期の作という
快慶の作と伝わる
脇侍の毘沙門天
室町時代の作という
聖観音坐像
室町時代に焼失した観音堂のご本尊
室町時代の作という
弘法大師坐像
「牛玉札」を恥ずかしながら
ぎゅうたまふだと読んでいました
正しくはごおうふだ
大和国長谷寺だだおしの御札


尾張藩初代藩主の徳川義直の命で
狩野探幽18歳の時に描かれたという
「義朝最期図」「頼朝先考供養図」
国重要文化財
原画は寺宝として大切に保管のため
複製画を公開されている

絹本著色義朝最期図(複製)
絹本著色頼朝先考供養図(複製)

有料ですが、ご住職様が絵の解説を
してくださるということなので
迷わず申し込みました
ちょうど御朱印を拝受される
参拝者の方々がいらっしゃり
ご住職様は大忙し
待つ間、絵をじっくり鑑賞

御朱印を書き終えられて
ご住職様の絵ときが始まりました
「義朝最期図」は上から下に
平治物語に沿って描かれたそうです

坂東へ逃亡中の義朝主従だったが
陸路は追手捜索厳しく舟で海路を
野間長田忠致の許へ向かった

義朝主従を迎えて厚遇した
長田忠致・景致父子
兵を集めようと逸る義朝を
「せめて正月三が日はゆっくりと」
忠致は義朝を引き留めたという

宴の影で刀を構えてるのは…?
不穏な空気漂う
一見、長閑な屋敷内
誰もいない部屋で
義朝主従討ちの密談か?
宴で酔いつぶれた鎌田政清は
足を斬られて絶命
大乱闘の場面
義朝のそばにいた渋谷金王丸が
離れた隙に義朝は襲撃され絶命
刀振り上げ応戦しているのは
渋谷金王丸かと
逃げる渋谷金王丸と鷲津玄光(多分)
後ろ向きに乗る姿が凄い
もうもう大変なことになっている

義朝が討たれたと伝わる湯殿跡は
野間駅近くの法山寺境内にある
長田屋敷跡から少し離れた場所
長田父子はわざと屋敷から離れた
場所に義朝主従を招いたのかも…
法山寺近くに乱橋があり
義朝家来と長田家来が争ったと伝わる

渋谷金王丸は京にいる義朝の側室
常盤御前の許へ行きことの次第を
伝え、主君の菩提を弔うため出家し
全国を行脚したと伝わる
後に土佐坊昌守俊となり、頼朝の命で
京にいる義経を襲撃したというが
個人的に信じられない…

義朝の長男義平は飛騨方面へ行き
兵を募るも集まらず、単身京へ
平清盛を討とうと下人に身をやつし
様子を窺うも見つかり近江石山寺で
捕縛されて処刑…💧
次男朝長は、逃亡途中に負った傷で
動けなくなり美濃青墓宿で亡くなる
朝長に請われて父義朝の手で最期を
迎えたとも…💧
義朝が手を下さずとも、朝長の命は
持たなかったと個人的に思いたい
三男頼朝は逃亡途中に皆とはぐれて
追手に捕まるも、池禅尼の命乞いで
伊豆へ流罪となる

最後の場面は頼朝の命で
長田父子が処刑されている

挙兵し勢い増した頼朝の軍門へ下った
長田忠致・景致父子は源平の戦いに
参加し奮戦したというが頼朝が父を
殺害した長田父子を許すはずもなく
「美濃尾張をつかわす」は
「身の終わり」だったということで
処刑の際は刀類を使わず(主君を騙し討ち
にしたのは武士の行いではないという
理由で)
撲殺で磔刑にされたという

義朝の首を洗った血の池で
供養を行なっている

源義朝は為義の嫡男というのが通説
だが近年の研究では廃嫡されていた
のでは?という説が有力という
弟の義賢が先に官位についたことが
理由のひとつという
坂東で勢力基盤を固めたのは
父に対抗してという説だけれど
義朝なりに家のため坂東へ行った
のかも知れない
保元の乱後、父や幼い弟達を
斬らなければならなかったこと
その犠牲をしても恩賞や昇進が
少なかったのは非常に悔しかったと
容易に想像できる
家臣に裏切られた最期は
どんな思いだったろうか

さて、「頼朝先考供養図」の絵とき

鎌倉殿と御家人達

源頼朝が上洛の途中、野間へ寄り
父義朝の供養に大法会を行ったという
父の無念を見事に果たした頼朝は
自分の後継ぎの子供達が全滅という
未来など想像もしなかっただろう

追従していた鎌倉御家人のリスト
矢印の源頼隆に注目

源頼隆は源義家の七男陸奥七郎義隆の
三男で父の所領相模国毛利庄に居た
父の義隆は義朝配下で平治の乱後
逃亡途中主君義朝の身代わりに討死
まだ幼い頼隆は捕えられて千葉常胤の
下に配流され大事に育てられたという
頼朝挙兵後、千葉常胤の計いで頼朝に
拝謁したという
確かご住職様の話では、頼朝の命で
頼隆の血筋の方が代々大御堂寺の
住職を担っていたという
(記憶違いでしたらごめんなさい🙏)

ご住職様は徳川家康の母方の祖父
水野忠政から続く直系のご子孫と
いうことで徳川家康は義朝に繋がる
源頼隆の子孫と水野家を婚姻により
繋げることで源氏の血が入った
水野家が代々大御堂寺の住職を
務めていらっしゃるとのことです
ご住職様、詳しい解説をいただき
ありがとうございました🙏

御朱印帳を購入
御朱印を拝受
御朱印を拝受

大御堂寺(野間大坊)は祈願成就で
人々の信仰篤いお寺ですが
私には鎮魂のお寺と感じるのです

次は安養院へ行きましたが
織田信孝の項でまとめ済なので
次は密蔵院についてまとめます🌿

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