名古屋巡りへgo_2022年6月🔹大御堂寺(野間大坊)②
尾張藩初代藩主の徳川義直の命で
狩野探幽18歳の時に描かれたという
「義朝最期図」「頼朝先考供養図」
国重要文化財
原画は寺宝として大切に保管のため
複製画を公開されている
有料ですが、ご住職様が絵の解説を
してくださるということなので
迷わず申し込みました
ちょうど御朱印を拝受される
参拝者の方々がいらっしゃり
ご住職様は大忙し
待つ間、絵をじっくり鑑賞
御朱印を書き終えられて
ご住職様の絵ときが始まりました
「義朝最期図」は上から下に
平治物語に沿って描かれたそうです
義朝主従を迎えて厚遇した
長田忠致・景致父子
兵を集めようと逸る義朝を
「せめて正月三が日はゆっくりと」
忠致は義朝を引き留めたという
義朝が討たれたと伝わる湯殿跡は
野間駅近くの法山寺境内にある
長田屋敷跡から少し離れた場所
長田父子はわざと屋敷から離れた
場所に義朝主従を招いたのかも…
法山寺近くに乱橋があり
義朝家来と長田家来が争ったと伝わる
渋谷金王丸は京にいる義朝の側室
常盤御前の許へ行きことの次第を
伝え、主君の菩提を弔うため出家し
全国を行脚したと伝わる
後に土佐坊昌守俊となり、頼朝の命で
京にいる義経を襲撃したというが
個人的に信じられない…
義朝の長男義平は飛騨方面へ行き
兵を募るも集まらず、単身京へ
平清盛を討とうと下人に身をやつし
様子を窺うも見つかり近江石山寺で
捕縛されて処刑…💧
次男朝長は、逃亡途中に負った傷で
動けなくなり美濃青墓宿で亡くなる
朝長に請われて父義朝の手で最期を
迎えたとも…💧
義朝が手を下さずとも、朝長の命は
持たなかったと個人的に思いたい
三男頼朝は逃亡途中に皆とはぐれて
追手に捕まるも、池禅尼の命乞いで
伊豆へ流罪となる
挙兵し勢い増した頼朝の軍門へ下った
長田忠致・景致父子は源平の戦いに
参加し奮戦したというが頼朝が父を
殺害した長田父子を許すはずもなく
「美濃尾張をつかわす」は
「身の終わり」だったということで
処刑の際は刀類を使わず(主君を騙し討ち
にしたのは武士の行いではないという
理由で)
撲殺で磔刑にされたという
源義朝は為義の嫡男というのが通説
だが近年の研究では廃嫡されていた
のでは?という説が有力という
弟の義賢が先に官位についたことが
理由のひとつという
坂東で勢力基盤を固めたのは
父に対抗してという説だけれど
義朝なりに家のため坂東へ行った
のかも知れない
保元の乱後、父や幼い弟達を
斬らなければならなかったこと
その犠牲をしても恩賞や昇進が
少なかったのは非常に悔しかったと
容易に想像できる
家臣に裏切られた最期は
どんな思いだったろうか
さて、「頼朝先考供養図」の絵とき
源頼朝が上洛の途中、野間へ寄り
父義朝の供養に大法会を行ったという
父の無念を見事に果たした頼朝は
自分の後継ぎの子供達が全滅という
未来など想像もしなかっただろう
源頼隆は源義家の七男陸奥七郎義隆の
三男で父の所領相模国毛利庄に居た
父の義隆は義朝配下で平治の乱後
逃亡途中主君義朝の身代わりに討死
まだ幼い頼隆は捕えられて千葉常胤の
下に配流され大事に育てられたという
頼朝挙兵後、千葉常胤の計いで頼朝に
拝謁したという
確かご住職様の話では、頼朝の命で
頼隆の血筋の方が代々大御堂寺の
住職を担っていたという
(記憶違いでしたらごめんなさい🙏)
ご住職様は徳川家康の母方の祖父
水野忠政から続く直系のご子孫と
いうことで徳川家康は義朝に繋がる
源頼隆の子孫と水野家を婚姻により
繋げることで源氏の血が入った
水野家が代々大御堂寺の住職を
務めていらっしゃるとのことです
ご住職様、詳しい解説をいただき
ありがとうございました🙏
大御堂寺(野間大坊)は祈願成就で
人々の信仰篤いお寺ですが
私には鎮魂のお寺と感じるのです
次は安養院へ行きましたが
織田信孝の項でまとめ済なので
次は密蔵院についてまとめます🌿
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