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ヨシエのおばさんのこと

もう何十年も前のことになる、町の小学校の前に「ヨシエ」という名前の文房具屋があった。小さい町のことで、大人になった今、ヨシエがどのくらいの大きさの、どんな店だったのかはっきり記憶はしていない。
ガラスの引き戸をガラリと開けるとガラスのショーケースがいくつか並び、私があんまり興味を持たなかったわりと高価な文房具がその中に並んでいたに違いない。

学校帰り、ヨシエにふらりと寄って、綺麗な絵のついたペーパーナプキンを買ったり、友達の誕生会に呼ばれれば何かちょっと可愛い文房具を買って包装紙にくるんでもらってプレゼントにしたりした。

学校の授業で「来週の授業では分度器を使います。ヨシエで買っておくように」と言われ、ヨシエに寄れば学年生徒の人数分の分度器が仕入れてあって、生徒たちはみんなヨシエで分度器を買った。

あれは「エースをねらえ!」が流行っていた頃、私はヨシエでソフトテニスのボールを買ったことがある。文房具屋でテニスボール?今から思えば自分で言い出したのだろうか、文房具屋で「テニスボールください」って。まあとにかく、町で唯一の文房具屋であるヨシエは子どもが興味を持つだろうものを取り揃えていた店だったのだろう。

ヨシエの店番をしていたのが、「ヨシエのおばさん」だった。子どもの頃のことで、当時幾つくらいの女性だったのかわからない。子どもから見ておばさん、それだけだった。中肉中背のショートカットで、今から思えばちゃんとお化粧をしている印象があるので、もしかして若い頃は美人だったのかも知れない。目もぱっちりしてたし、紅い口紅をひいていたことも憶えている。もしかして、ヨシエのおばさんは美人だったのかも知れない。

でもヨシエのおばさんはヨシエのおばさん、子どもの印象はそれだけだった。

中学生になり、ヨシエから足が遠のいた。町にスーパーマーケットができて、ちょっとした文房具はスーパーで買えるようになったのだ。そんな時、母が言った。

「ヨシエのおばさん、新聞に出てるよ」

正しくは、ヨシエのおばさんが新聞に載っていたわけではない。ヨシエのおばさんの作った俳句が、新聞で賞を取っていたのだ。

「合掌のうしろ音無く銀杏散る」

私はその時初めてヨシエのおばさんの名前を知った。(もう忘れてしまったが)本を読むのが好きだった少女だった私は、素直に「いい句だな」と思った。夏になるとお祭りをする、あの町の小さな神社で手を合わせるおばさん。その後ろに銀杏が舞っていたんだな。

私は思った、大人ってすごいな。

あんな何でもない文房具屋で店番をして、毎日子どもに鉛筆とか消しゴムとかシールを売って、なのに隠れた顔では自分の世界を句にするんだ。

ヨシエのおばさんの世界は、あの小さな文房具店「ヨシエ」だけじゃなかったんだ。

大人って、自分だけの世界を持ってるんだ、すごいな。

私も人に「こんな世界を持っていて羨ましいな」と思われる人になりたい、そう思っているのはヨシエのおばさんの影響かも知れない。


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