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内面を見てほしいと思うのは傲慢なのか。そもそも内面は存在するのか。

きもい時間帯に投稿しまーす。
全部妄想創作でーす。

私が言葉に神経質なのか相手が馬鹿なのか、馬鹿な相手を選ぶ私が馬鹿なのか、恋人になってくれる人はほぼ毎回問題発言が多いです。

初めて付き合ったときは相手が自分のどんなところを好きになってくれたのか知りたくて私のどこが好き?とか聞くのが楽しかったりした。なんとなく自分のなかでその「どこ」には表面的なものはあまり含まれていない前提がなぜかあった。
私の内面のどこかの部分を気に入ってもらえたのかなと思ってた。でもいろんな人と付き合っていくうちに私の期待しているような回答は男の人からはもらえないことがわかった。

だからそのうち「私のどこが好き?」とか聞かなくなりました。

それでも恋人との会話の中で相手のどこが好きかという話題になったとき、恋人が

「男はまず見た目が可愛いっていうのが1番の好きな理由になるから、これが本当にでかい。」
「好きな女の子と映画観に行ったりデートするのも楽しいけど結局男が1番楽しいのはその女の子とセックスしてるときが1番楽しい」

とシラフでぬかしておりました。コノ糞野郎くんの2つの発言添削したら全部赤文字だらけになってまず文として成り立たなくなりますね。

この2つの発言がこの世の真理かどうかなんてどうでもいいんです。もしそれがコノ糞死ね野郎くんにとって本当のことだったとしても、それをそのまま相手に伝えることが相手にどういう影響を及ぼすか考えが回らないことがコノ糞死ね野郎くんの馬鹿たるゆえんなんです。

コノ糞死ね馬鹿野郎くんは私のことを褒めるときも必ず褒めるだけではなく他の人を貶めます。そしてほぼ私の表層的なことしか褒めません。彼奴が女の人のことをブスとかデブとかババアとか貶すたびに私は醒めて沈んだ気持ちになります。彼に褒められても私は全然嬉しくありません。私が太ったら、私が歳を取ったら、私が醜くなったら。私よりも容姿の良いひとが現れたら。いつか絶対コノ糞死ね野郎くんは私にもそれらの言葉を浴びせるだろうと思うからです。

コノ糞死ね野郎くんにとって女は可愛くてえっちができることにしか価値がないので、私がこうしてあーだこーだnoteに怨みつらみ、普段考えてることがあってもなくてもどうでもいいことです。私がどんな本を読んでても、どんなイカした音楽を聴いてても、どんな思想を持っていても、コノ糞死ね野郎くんにとってはなんの意味も持たないことです。それでえっちがもっと気持ち良くなるわけではないので。だから知る必要もありません。私はコノ糞死ね野郎くんの前に存在するのがだるいです。

でも、そうは言っても私にヒト様に見てもらえるような内面があるんでしょうか。内面を見てほしいというのならヒト様が見たいと思うような、見てもらえるような内面になれよって話ですよね。

そもそも内面というのは存在するんですかね。人間を表面と内面で分けること自体間違っているのかもしれません。表面も内面もないのかもしれない。でもどうしても私の表層的な部分じゃなくて内面、本質を見てほしいという願望があります。私の本質とは何か、本質なんてあるのかわからないけれど、私の内面、本質みたいなものを見て、かんじとってほしいという欲求。どうして私の表層ではだめで私の内面、本質みたいなものじゃなきゃだめなのか、それは表層だと似たようなものや代わりが他にもいくらでもいるからです。そして表層的なものはすぐに形を変えてしまいます。だからコノ糞死ね野郎くんが今好きといっている私のこの表層的なものはすぐゴミになってしまいます。コノ糞死ね野郎くんは私のことを好きじゃなくなります。私の本質みたいなものは変わりません。だから誰かに見抜いてほしい。

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