人生に観客は必要ない
「誕生日会をするにしても、そこに参加するのがめんどくさい。」
そんなことを、随分前に先輩が言っていた。
大切な人の誕生日を祝うなら私から相手へ、そこには1対1のやりとりしか本来存在しないはずなのに。
主催者という取りまとめ役が出現すると一気に滅入る。
お祝いに参加して協力してだっておめでたいことだもの、嬉しいことだもの、ね?いいでしょう?
そういった無言の圧力がある
いやいや、勝手に祝わせろよ。大切な人のことなのだから私なりの感謝の伝え方もあるだろうよ、と。
あなたとわたし、1対1のやりとりでなくなる場合、またもや出現するのは観客の存在だ。
たとえば集団でお祝い事をなすとき、プレゼントを用意するにもメッセージをたくさん集めてまとめるにしろ、量に問題がある。
色紙いっぱいに書いてあるメッセージ、の方がそりゃ嬉しいわな。むしろ多くなきゃまとめる意味ってもんがない。
祝福してくれる人がこんなにたくさんいるんだ!という喜びは本人をくすぐるだろうしサプライズ感もあっていいだろう。
その「たくさん」を獲得するために観客が生まれる。大して深い関係でもないけれどでも相手の寿をお祝いしないような立場でもない微妙な人たち。
1対1のやりとりでのお祝いならば当人同士でなんの問題もない。お祝いしたい気持ちもそれを行動に起こすのだって自分次第。
そこには相手を大切な友人とみなしている自分がちゃんと地に足ついてそこにいる。
でも集団でお祝いするが故に生まれてしまうのが観客。それってそんなに必要か?
その一方で、うわっ自分って器小さいなぁ~って声も心のなかには存在する。
それくらい祝ってやれよって。
女々しい自分に直面する。
祝えない自分を開き直ることもできないくせに、周囲への違和感を誤魔化すこともできない。
結局は自らの在り方を決めなくてはならないのだ。
人生の観客になりたくないなら、そんな自分をけなさない。
観客になるにしても、自分なりの越えたいハードルをつくっておく。祝ってあげられる私っていいんじゃない、くらいに。
そうやって何かを納得してこなしていこう。
別に特別な問題じゃない。でも喉に小骨が引っ掛かるみたいに気になって不愉快。そんな事象が人生にはごまんとある。
誰かと談笑してササッと片してしまおう。
心の代謝は日々高めていくのがいちばんだ。
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