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同期という賞味期限切れの物差し

学校制度の延長線上で、同じ年に入社した者同士をクラスメイトよろしく、同期という「塊」で括る習慣を現代においても、少なくない企業がやめようとはしない。

新卒一括採用がなくならない限り、同期という概念が消滅することはないだろう。

同期だから、スタートが同じなので、初任給は一律であるという暗黙の了解が多くの企業内で今なお有効である。

一部の企業では、能力やキャリアに応じて、待遇差を設けているが、圧倒的に少ない現状なのだ(実際、中途採用をベースとしている企業内では同期という概念自体が事実上存在しない)。

連帯や競争意識をたやすく導入できた同期という名の「制度」は、やはり現在においては破綻しているとまでは言わないが、ある意味「賞味期限切れ」の状態であると言える。

入社時に同じスタートラインにいるという考え方には、やはり論理的破綻の綻びを隠せない。

社会に出れば、出身大学や学んできたこと(専攻)はほとんど関係ないと、誰もが無条件に、無邪気に口にしているが、それは半分当たっているが半分間違っている。

出身大学や学んできたことが「物を言う」期間が単純に限られているだけなのだ。

いいところ半年間、最長で一年であろうか。

定年まで出身大学という「学歴=貯金」で過ごせるのならば、そのような組織自体がどうかしているし、神経を疑う。

偏差値の高い大学に入学し、そこで学んだものは、間違いなく努力をしている。

それは事実であり、それこそが大事なのだ。

ゆえに、偏差値の低い大学の者と同じスタートラインに立っているわけがないのだ。

ここで言っているのは、学歴至上主義に基づく偏見ではない。

採用とは、偏差値や学習結果ではなく、パーソナリティーや可能性・潜在性に焦点を当てなければならないという「理屈」も理解できる。

であるからこそ、同じスタートラインに立ち、一律的な待遇を強いられることこそが理不尽なのである。

入社前も入社後も、明らかに「差」はついている。

埋めようがないのか、逆転可能なのかは、誰にもわからない。

同期なのにだとか、同期だからというような、配慮考慮はもはや必要ではないだろう。

間違った平等意識は、間違った権利意識を増長させてしまう。

企業にとって何より必要なのは、健全な競争原理に他ならない。

あなたに同期はいますか。

あなたは同期を意識していますか。





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