![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/54429626/rectangle_large_type_2_af76e65de43091437b0595d557e65ccd.jpg?width=1200)
ものがわかるということ
ものがわかって仕方ない時が誰にでもある。
周りに見えていないものが自分だけには見えているという状態だ。
それは大抵の場合、
ある条件を捨て去った土台の上で、物事を見通しよく整理したキレイな景色にすぎない。
何もかも知っているし、どこに何があるのかもわかっている。
けれども、そのような状態は長くは続かない。
新しい条件や新しい立場で、考え直した場合に、途端に行き詰まってしまう。
まともな人間であれば、このようなことを繰り返す。
ものを考えるとはこのようなプロセスに他ならない。
だからものがわかり過ぎた後には、必ず停滞がやってくる。
問題はその踊り場で、踊り続けることができるか否かであろう。
それを世間では知的体力(まあ精神力でもいいが)と呼ぶ。
逆にいうと、
いつまでたっても、ものがわかっているとか見え過ぎて困るとか宣う人間のいうこと(戯言)は信用しない方がいい。
彼らに見えているのは、彼らの頭の中の妄想に過ぎないのだから。
よろしければサポートお願い致します。