日記+α #5 アーティゾン美術館『ABSTRACTION』

暑い。

今年の太陽はいつになくやる気に満ちていて、自分の周りをブンブン飛び回っている地球とかいう青く澄ました癪に障る羽虫、そしてその表面に付着している芥子粒みてーな人間なる生物を丸ごとウェルダンにしてやろうという気概を感じる。

アーティゾン美術館の『ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開 セザンヌ、フォーヴィスム、キュビスムから現代へ』(以下、長いので『ABSTRACTION展』とする)を観るために久々に外出したところ、屋外は巨大ないきなり!ステーキと化していて太陽が肉マイレージをせっせと貯めていた。聞いたところによれば間もなく肉マイレージ月間ランキングTOPとのこと。8月が一番の稼ぎ時らしい。

アーティゾン美術館は例のごとくWeb先行予約制だが、やはりWebでクレカ番号を直接入力するのが嫌だったので予約なしでいった。PaypalとかAmazon Payとか対応してくれないか。Webスキミングが怖すぎる。

『ABSTRACTION展』は6,5,4F展示室の3フロアを丸ごと使った展示だった。 個人的には6Fの展示が最も好きで、5Fの抽象表現主義あたりまで時代が進むともうよく分からなかった。あの手の絵は多分、結果としてどのようになったかというよりも、例えば筆の流れとか順番などからどのように描かれたのかというプロセスが重要なのかなと思った。自分でも絵を描くのであれば少しは違う印象になるのかもしれない。

あまりまとまった感想を持ったわけではないので、以下それぞれ雑多に所感を書く。

抽象と文字

ラウル・デュフィ, “トルーヴィルのポスター”, 1906. https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/ABSTRACTION-the-Genesis-and-Evolution-Artizon-Museum-interview-202306, 2023/08/06取得.

個人的に6Fを通覧して面白いと思ったのは、複数の作品に文字が登場することであった。
というのも、文字はある程度具体的な形を持つ(社会的な合意がある)ものであって、抽象化してしまえば途端に意味を失うものであると思うからだ。

例えば、時折生成AIが生成した画像に謎言語の文字が混入することがあるが、この例を考えるとわかりやすいと思う。人間を描いた画像を生成するとき、「顔っぽいもの」「目っぽいもの」抽象化して「人間っぽいもの」を描くことは人間の絵として意味をもつが、一方で文字を抽象化して文字っぽいものを作ったとしてもそれは文字として意味をもたない。
(↓あまりいい例が見当たらなかったのだが、文字をimg2imgするやつ)
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2211/16/news028.html

上記のラウル・デュフィは感覚を重視するフォーヴィズムの画家として知られるそうだが、文字というのはむしろ人間的・理性的なものであって、フォーヴ(野獣)の立場から見て、あるいはその他の抽象的な絵を描く立場からも、文字という理性的な合意を破壊するにせよそのまま残すにせよ面白いモチーフなのだろうと思った。
トルーヴィルのポスター』についても、ポスターという個別具体的な物と結びついたある種の記号が抽象的な画面の中央に配置されることで、なにか意味的な奥行きのようなものが感じられて面白い。

『神秘の語らい』

https://www.artizon.museum/collection/art/19428
もしかしたら『ABSTRACTION展』の狙いとはすこし異なるのかもしれないが、オディロン・ルドンの『神秘の語らい』という作品がぱっと見でとても良かった。
風が吹けば全てがかき消されてしまいそうな、忘れてはいけないと思いながらも薄れゆく寝起きの夢の記憶のような、儚げな風景が非常に印象的だった。
画面左側に伸びる柱なのか木なのかよくわからない円柱は伸びるにつれて次第に境界が薄れて、これまた空なのかもよくわからない背景に溶け出している。
ただ右下の花らしき橙色と黄色の斑点だけが確かな実体として存在しているように見える。
神秘があるとするなら多分こういう実体の向こう側に透けて見えるものなんだろうな、と思った。

『空間における連続性の唯一の形態』

https://www.artizon.museum/collection/art/21861
一見して妙なタイトルだなと思った。 そもそも空間は際限のない連続的なもの(と一般的には見られている)し、仮に連続的なものがあるとしたらそれは固まった形態を持たないものであろうから、何重かに矛盾しているような響きがあるからだ。
当初はなにか皮肉めいたタイトルなのかと思ったのだが、後々調べて作者のウンベルト・ボッチョーニが未来派であったと知って合点がいった。
『空間における連続性の唯一の形態』もその力強さに何らかの説得力を見出しそうになるけれども、速さを得るために腕をもいだようにも見える。結局未来派というのはナイーブな進歩史観が背景にあるのかなと思った。
現代で作り直すなら足もタイヤにするとよいのではないか。


他にも色々印象的な作品が多くあったが疲れたのでこの辺にしておく。

美術館の帰りには銀座の方へ行ってたけー焼肉食ってうめー酒をしこたま飲んだ。
賢しらな御高説も黒毛和牛の前では無力よ。
抽象画がなんだ。たけー肉を食ってうめーと思う。こんな具体的なことってあるか?俺は今、人間がせっせと作り上げた崇高な文化に反逆している!
なんてことを思うわけもなくやはりただ美味かった。でもそれこそが具体なんだよなきっと。

わりと飲んだ気がするが二日酔いにはならなかった。ヘパリーゼってすげー。ありがとうヘパリーゼ。
こらっ!お前もヘパリーゼさんにありがとうしなさい!
人間、感謝の気持ち忘れたら終わりだからな。

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