日記+α #4 『アルフォンス・ミュシャ展』、ポップカルチャー、八王子

先日、八王子市夢美術館へ『アルフォンス・ミュシャ展』を観に行った。

前々からミュシャの絵を生で観てみたいと思っていたところ八王子でやっているという情

を終了2週間ほど前に得て、ギリギリで観ることができたという次第。

ぼんやり待っているだけで望んだ機会が来るのってすごいな。これが都会なんすわ。スローライフって何も起こらなすぎて時間の感覚がゆっくりになってるだけだからね。気をつけてね。

東京に住み始めて5年目になるが、今回初めて八王子に踏み入った。

上京する前からベッドタウン的な文脈でよく耳にする名前ではあったが、駅前は随分栄えていて、都心からそれっぽい要素を抽出してまとめたミニトーキョーという体であった。いやまあ八王子も東京なんですけど。

23区内は街(駅といってもいいかも)毎に機能を分担している一方で、八王子のようなやや離れた街ではその内部で全ての機能を完結する方向に発展していくんだろうな、などと、ユーロードなる繁華街の健全な雰囲気の通りから一本入った薄暗い路地に疎らに並ぶガールズバーだかなんだかの客引きの女の子達を眺めがら思った。

八王子市夢美術館は「ビュータワー八王子」なるビルの中にあって、外見からは一見して普通の商業施設の趣であった。日記+α #1で行った府中市美術館のような、都心から離れているが故に土地を広く使える、如何にも美術館然とした美術館ではない。

当初よりそういう情報を得ていたので、内容もこじんまりしたものかと思っていたが、想像よりも展示物は多く見ごたえがあった。

ミュシャがどうのこうのと語るのはあまりにも荷が重いというか、恐らく日本でも百年以上され続けられている営為に態々分け入れるほど詳しくはないから、いつも通り感想を書く。

絵を並べて鑑賞してみて、改めてメッセージ性の無さを感じた。そういう意味で退屈といえばそうだったのだが、多分これは単にネガティブにだけ捉えるべきではないとも思う。

というのも、ここでいうメッセージとは例えば従来の絵画が背負っていたのであろう「権威」みたいなもの、あるいは重責のことなのかなと思う。そういうしがらみから解き放たれているからこそ、シンプルに美しいと感じさせたり、「買え!」という強い訴求ができるのかなと感じた。

実際、ミュシャ自身も従来的な特権階級のための芸術ではなく大衆のための芸術であることにこだわっていたという旨書いてあったし、それゆえポスターのように大衆に見られることに意味のある絵を描いていたのだろう。

絵柄やスタイルがたとえば漫画などに与えた影響は計り知れないと思うのだが、そういうことを考えながら眺めていると、ミュシャはとてもポップカルチャー的なのだとふと気づいて、なにか全てのピースが上手く嵌ったような感じがした。

マンガやアニメ、あるいはライトノベルなんかが、「平坦な人物像(≒キャラ)」「ご都合主義」などと劣ったものとして見られていて~という話をするのもあまりにも今更で恥ずかしいのだが、重要なのは、ラノベはラノベであるからこそ(それは人物がキャラクター的だったり、ストーリーがテンプレであったり、あるいはこの表現がお好みならば「データベース消費」的であるということなど)描ける文学性があって、それは純文学の手が届かない場所にあるということだ。 乱暴な言い方を許して貰えれば純文学にしか文学性が読み取れないのはそれこそ劣っていると思う。

メッセージ性というのは、ある種「美」における贅肉としても捉えられるように思う(もちろんメッセージ性が仕上げる「美」もあるとは思うが)。

ローコンテクストであるからこそ、大衆はそのシンプルな「美」を受け入れやすいわけだが、それゆえ教養主義的には「誰でもわかる低俗なもの」と見なされうる。しかし改めて考えると多くの人が認識できる美というのは、芸術としてかなり本質的なことなんじゃないか?とも思う。

つまりはミュシャも伝統的な芸術も、「美」というある真理、あるいはひとつの消失点に向かうそれぞれのアプローチであり、同様にいわゆるポップカルチャーもそれについて意識的ではないにせよ、なにか人間にとっての本質的ななにかへの1つのアプローチなんだろうなと思った。

大切なのは結局のところ、どのアプローチにせよその先にある本質的ななにかを見据えることなのかなと思う。どちらが優れているという話ではない。これは「作者の死」のことを行っているのかもしれない。

現代はコンテンツに溢れていて、ともすればそれらは「わかりやすく、つまらないもの」というレッテルを貼られがちだけど、実のところそこでその先を能動的に見据えようとする必要がある分、むしろ難しくなっているのではないだろうか、と思った。

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